五王戦国志5 凶星篇 井上祐美子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)魁《かい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)謀士|耿淑夜《こうしゅくや》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)あれ[#「あれ」に傍点]も見ている ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/05_000.jpg)入る] 〈カバー〉 〈魁《かい》〉王朝最後の血縁〈奎《けい》〉伯|段大牙《だんたいが》は北方諸国を統べる王として西国〈琅《ろう》〉との決戦に挑んだ 頼みの謀士|耿淑夜《こうしゅくや》と引き離されたままかつては窮境を共にした赫羅旋《かくらせん》とついに干戈《かんか》を交える 〈魁〉の滅亡から五年天空には帝位剥奪を示す孛星《はいせい》が不吉に輝いていた—— COMMENT 井上祐美子 Yumiko Inoue ようやく、第二部に区切りがつきました。なんだか、長い間ずっと下ごしらえばかりしていたような気がしますが、本当に書きたかった物語は、これから。一部、脳天気に自覚のないキャラやら、登場シーンの少なかった人物もいますが、以後、どんどん整理してこき使います。乞うご期待——って、ほんとか? PROFILE 1958年11月生まれ。兵庫県姫路市出身。中国の歴史を素材にした小説で独自の世界を切りひらく。主著に「五王戦国志」(小社刊)、「桃妖記」(徳間書店)、「長安異神伝」「桃花源奇譚」(トクマ・ノベルズ)、「女将軍伝」(徳間文庫)などがある。 カバーイラスト/小林智美 カバーデザイン/森 木の実(12 to 12) [#改ページ] [#挿絵(img/05_001.jpg)入る]  五王戦国志5 凶星篇 [#地から1字上げ]井上祐美子 [#地から1字上げ]中央公論社 [#地から1字上げ]C★NOVELS Fantasia [#地から1字上げ]挿画 小林智美   目  次   序  第一章 長塁  第二章 緒戦  第三章 危急存亡  第四章 夢の行く果て   あとがき [#改ページ]  主な登場人物 耿淑夜《こうしゅくや》 [#ここから3字下げ] 一族の仇《かたき》である堂兄《どうけい》・無影の暗殺に失敗し逃亡中、羅旋にひろわれ〈奎《けい》〉軍に加わる。謀士《ぼうし》として〈衛《えい》〉〈征《せい》〉に対するが、義京《ぎきょう》の乱後、羅旋と袂《たもと》をわかち大牙とともに〈容《よう》〉に亡命。〈衛〉より懸賞をかけられた身であるため、表向き下級の役回りに就きながら、大牙の謀士として〈奎〉の再興と中原の統一を志す。読んだ書物をすべて暗記する特技を持つ。 [#ここで字下げ終わり] 段大牙《だんたいが》 [#ここから3字下げ] 小国〈奎〉の世嗣。闊達果断な武人。〈征〉〈衛〉の野望に対し、〈魁《かい》〉王朝の秩序を護ろうと兵を挙げたが、王都義京で太宰子懐《たいさいしかい》が謀反、〈魁〉王を弑逆《しいぎゃく》したため敗走。父|之弦《しげん》と兄|士羽《しう》、そして封国を失った。手勢とともに〈容〉に亡命して雌伏、政争に乗じて〈容〉の執政となり、〈奎〉の再興を志す。 [#ここで字下げ終わり] 苳《とう》 児《じ》 [#ここから3字下げ] 段大牙の兄士羽の忘れ形見。〈容〉伯|夏弼《かひつ》の許婚者に定められているため、戦の間は〈容〉の国都に預けられている。未来を予言する不思議な力を持つ。 [#ここで字下げ終わり] 冀小狛《きしょうはく》 [#ここから3字下げ] 〈奎〉の老将軍。義京の乱後も大牙に仕え〈容〉に亡命。剛毅にして実直。 [#ここで字下げ終わり] 赫羅旋《かくらせん》 [#ここから3字下げ] 西方の戎《じゅう》族出身の遊侠。元〈魁〉の戎華《じゅうか》将軍・赫延射《かくえんや》の子。豪放磊落で胆力にすぐれる。侠の集団を率いて〈奎〉軍に加わったが、義京の乱で敗走、西方に逃れた。居を定めた辺境国〈琅《ろう》〉の内乱で藺如白を助け、その義子となる。 [#ここで字下げ終わり] 野《や》 狗《く》 [#ここから3字下げ] 羅旋を頭取と仰ぐ侠たちの一人で、夜盗を生業とした。義京の乱後、尤暁華に雇われ密使を務めることが多い。 [#ここで字下げ終わり] 耿無影《こうむえい》 [#ここから3字下げ] 淑夜の堂兄。主君を弑逆、己の一族をも滅ぼして〈衛〉の公位を簒奪《さんだつ》した。性、狷介《けんかい》だが、怜悧な手腕で〈征〉に次ぐ南方の大国〈衛〉を能《よ》く治め、中原の制覇に野心を燃やす。義京の乱後、王を名乗る。 [#ここで字下げ終わり] |百 来《ひゃくらい》 [#ここから3字下げ] 〈衛〉の老将軍。無影の公位簒奪に反発が渦巻く中、逸速くその信を得て重臣となり、獲得した小国〈鄒《すう》〉を治める。 [#ここで字下げ終わり] 魚支吾《ぎょしご》 [#ここから3字下げ] 東方の大国〈征〉の主。壮年の美丈夫で辣腕《らつわん》の戦略家。中原の覇権に執念を燃やし、〈魁〉王朝の滅亡を仕掛けた。義京の乱後、〈魁〉と〈奎〉を版図に収め、王を名乗る。中原の再統一まで最短の距離にあるが、嫡男・三男を失い、世嗣は幼く、忍び寄る病魔に焦りを感じ始めている。 [#ここで字下げ終わり] 漆離伯要《しつりはくよう》 [#ここから3字下げ] 礼学を修めた〈征〉の謀士。斟酌《しんしゃく》せぬ発言から魚支吾に少々疎ましく思われてはいるが、新都建設を任され、先んじて創立した太学で教鞭をとる。 [#ここで字下げ終わり] 藺如白《りんじょはく》 [#ここから3字下げ] 西方の辺境国〈琅〉の国主。羅旋の助力を得て異母弟との政争に勝ち、小国の生き残りを賭けて国内の改革に着手する。 [#ここで字下げ終わり] |揺 珠《ようしゅ》 [#ここから3字下げ] 嬰児のころに〈魁〉の王太孫の妃となるが死別。義京の乱後〈琅〉に移る。兄である前〈琅〉公|孟琥《もうこ》も病死、血縁は伯父如白のみとなる。 [#ここで字下げ終わり] 尤暁華《ゆうぎょうか》 [#ここから3字下げ] 中原屈指の富商・尤家の女当主。〈魁〉の王都義京で、女ながら大国を相手に商売をとりしきる一方、段大牙や赫羅旋らを背後から援助した。義京の乱で〈魁〉が滅亡してのち、無影と結び〈衛〉に拠点を移した。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#挿絵(img/05_006.png)入る] 五王戦国志5 凶星篇      序 〈奎《けい》〉王、段大牙《だんたいが》には、他の王たちにくらべて不利な点がいくつもあった。自領を持たなかったこと、人材登用の方法がなかったこと、諸国の国主たちに比べて歳が若すぎたこと、等々。  だが、なにより決定的であったのは、彼の出自の問題だった。 〈魁《かい》〉王家にもっとも近い血縁である〈奎〉伯家の、世子であったという身分は、〈魁〉の正統の後継者としての大義名分を彼に与えた。また、それ故《ゆえ》に北方の諸国も大牙を必要としたのだが、大牙自身が必要とされたわけではなかった。  つまり、〈奎〉の一族の男子であれば、大牙という人間でなくともよかったのであり、大牙自身の才能を評価されたわけではなかったのだ。  旧来の社会機構では、王でさえ役割のひとつにすぎず、将にしろ相にしろ、個の才能は必要ではなかった。その家に生まれついた者が、後を継ぐのが当然であり、その資質や個人の希望は問われないのが常識だったのだ。  平時には、それでも社会は機能する。だが、乱世にもっとも必要とされたのは、有事に対応できる個人の才能であり、それを適所に配し、統御することのできる資質だった。  平時、〈魁〉が健在ならば、大牙は〈奎〉伯として、将としてまた相として〈魁〉王を立派に補佐してのけただろう。そうなるように彼は育てられたのであり、彼に嗣子《しし》の座を譲り教育した段士羽《しう》も、〈魁〉が消滅するという事態だけは想定していなかった。そういう意味では、しょせん段大牙は乱世の王たる資質はなかったといってよい。  逆に、その資質をもっとも良く備えていたのは、〈衛《えい》〉王、耿無影《こうむえい》であろう。身分を問わず人を登用する制度を作りあげ、旧来の士大夫《したいふ》層の反乱を巧みに押さえこみ国内を統御してゆるがせにせず、外征をひかえてじっと時を待っていた。  だが、彼にも問題はあった。一番の問題は彼自身にはいわゆる領土的な野心が欠けていたことで、軍事が政治的なかけひきのみに用いられることもままあった。  いわゆる権力欲にも欠けていたらしく、あまり物事に拘泥《こうでい》しない点からいえば、本来は、あまり俗世《ぞくせ》向きの人物ではなかったのかもしれない。おのれが育てた人材を| 政 《まつりごと》の要職に就けていたのだが、おいおい、おのれは手をひいて、彼らの合議制に移行してもよいと思っていた痕跡がある。特定の側近《そっきん》を作らず人を容易に近づけず、孤独の影をつのらせていた彼は、〈衛〉をどんな国に作り変えようとしていたのか、おぼろげながらに理解していたのは、おそらく堂弟《どうてい》、耿淑夜《こうしゅくや》と、〈琅《ろう》〉の赫羅旋《かくらせん》ぐらいではなかっただろうか。  一方、〈征《せい》〉の魚支吾《ぎょしご》は、どちらかに分類すれば段大牙型の君主であった。ただし、王たる資質は彼に十分備わっていたはずである。彼の足をすくったのは、やはり世襲という制度だった。魚支吾は、みずからの子たちの中におのれの後継者たるにふさわしい能力を見いだせなかったにもかかわらず、幼い末子を嗣子《しし》の座につけたのである。王は、王の血縁が継ぐべきだという固定観念から、彼はどうしても抜けられず、ひいては彼が逝去《せいきょ》したのちの〈征〉に不穏の種を撒《ま》くことにもなったのである。  結果として〈奎〉および北方の諸国が、最初に崩壊したのは、天が彼らに時を貸さなかったためである。彼らが〈衛〉〈征〉といった国と対抗していくためには、諸国がひとつの国として実質的にも精神的にも融合する必要があり、それにはすくなくとも一世代が必要だったはずだ。だが、〈征〉の存在に圧迫され、彼らは事を急ぎすぎた。ただ、おなじ焦燥《しょうそう》でも段大牙のものは、そのまま彼の若さであり、他の諸国のものは、旧来の権威の最後の残滓《ざんし》にしがみつこうとするものだったのである。  五王の時代。  まず、〈魁〉王が消え、次に〈奎〉王、段大牙がその座から去る。〈征〉王、魚支吾と、〈衛〉王、耿無影、そして、五人目の王が名乗りをあげるのは、いま少し後のことになる。 [#改ページ]  第一章————————長塁      (一)  草の匂いのする西風が、頬《ほお》と口髭《くちひげ》とをなぶっていった。  二頭の馬に引かせた車の上で、段大牙《だんたいが》はすこし身じろいだ。馬が足ぶみするのに合わせて、大牙の足の下で、車輪が小さく悲鳴をあげた。  それに紛れるようにして、 「無駄なことだ」  大牙は苦くつぶやいた。  彼の周囲には、百人からの人がいた。だが、彼のことばを耳にした者はごくわずかだったし、聞いた者のうちの半数はその意味が理解できなかったにちがいない。 「陛下、なんとおおせになりましたか」  ていねいにたずねられたが、 「なにも」  大牙は口をつぐんで、視線をわずかな下方へむけて投げかけた。  視線の先は、西にむかってひろがる草原だった。大きくうねる起伏と起伏の間のなだらかな線にそって、何百という人がうごめいているのが、胡麻つぶのように見える。なにをしているかははっきりと見えないが、大牙が皮肉な視線を投げかけているのは、その稜線《りょうせん》の作業にちがいなかった。  西方の国〈琅《ろう》〉に続く草原の、ここがはじまりである。この先の、どのあたりから〈琅〉がはじまり、どのあたりからこちらが〈乾《けん》〉——いや、いまや北方諸国の連合国となった〈奎《けい》〉なのか、実は判然としていない。 〈琅〉は、もともと国などなかった西方に人が住みつき、年月をかけて公国として認められた土地である。〈乾〉伯がここに領土を与えられた時には、西方は、はるかかなたに遊牧の民である戎族《じゅうぞく》がわずかに出没する程度で、境界をひく必要がなかった。西に〈琅〉国ができた時にも、人も住まず、ろくに草も生えず耕作もできない土地など、争奪の対象にはならなかった。のちに東西から人がはいりこみ、邑《むら》を作り、細々と生活を始めたが、これまた暗黙のうちに両国の間で了解ができた。  つまり、定住し農耕をする者は〈乾〉国に税をおさめ、遊牧をしている者らは〈琅〉国に所属するのである。〈乾〉国は、遊牧をする者の扱いには不慣れであり、気性も慣習もちがう彼らを無理に〈乾〉国の方式にしたがわせて悶着《もんちゃく》を起こすより、〈琅〉国に管理させ、やっかい事が起きた時には〈琅〉国の責任を問うた方がはるかに楽だったのだ。どちらにせよ、戎族がおとなしくして、農耕の民らに危害をくわえないでいてくれるなら、それで文句はなかった。 (おかげで、いまごろになって俺が困ることになる)  大牙は内心で罵《ののし》っていた。  もっとも、口には決して出さない。直情径行な彼が、たった一年でずいぶん慎重になった。すくなくとも、思ったままをすぐに口にだすことは、めったになくなった。理由はまず第一に、礼儀作法に関してのうるさがたが、常に周囲につきまとうようになったこと。  父と国を失い、伯国の後嗣《こうし》から流浪の公子という立場になっていた大牙は、その気楽さからか言動が粗暴になった——というのが彼らの主張である。磊落《らいらく》で武人肌の大牙は、もともとそれほどていねいな口をきいていたわけではないし、礼儀正しい公子というわけでもなかった。だが、それではすまない——と、彼らは白髪首をならべていうのである。 「それでは、威厳というものがございません。御身《おみ》さまはもはや、亡国の公子でも〈容《よう》〉国のやっかい者でもない。〈奎〉国の——この北方の数国を統《す》べ、〈魁〉国の伝統を正しく受け継ぐ国の王であられるのですぞ」  威厳で国が守れるのならば、父も、〈魁《かい》〉の最後の王、衷王《ちゅうおう》も苦労などしなかったと大牙は思う。ただ、ささいなことで他人と口論するには、時間も気力も足りなかったし、いわなくてもいいことは胸ひとつに収めて知らぬ顔をする程度のおとなの真似は、大牙もできるようになっていた。  もうひとつの理由は、大牙のことばの意味を正確に受け取り投げかえしてくる人間が、彼の周囲、ごく身近なところからいなくなったことだった。  側近中の側近としてきた人間のうち、〈奎〉伯国以来、彼に従ってきた将軍、冀小狛《きしょうはく》は、やはり〈奎〉伯国以来の、わずかばかりの大牙の手兵を統括する立場にあった。大牙直属とはいえ、一将軍の身である。大牙との間には、〈乾〉や〈貂《ちょう》〉、その他の国々の国主がおり、彼らがさしむけた文官たちが、大牙の周囲をとりまいて四六時中、目を光らせている。彼らをさしおいて、冀小狛将軍が大牙の第一の側近の地位を占めることは、事実上不可能だった。  文官たちの表向きの役目は、大牙の補佐役である。実際、国々の間でことを円滑に運ぶためには、それぞれの国内の経営に通じている彼らがどうしても必要だった。彼らのいう下層の者と交わってきた大牙の言動を、一国の王にふさわしい格式と傲慢《ごうまん》さをもったものに変えるのも、彼らの役目のひとつだった。だが、彼らの真実の主眼は、大牙が、国主たちの不利益になるようなことを企てないよう、そして特定の一国だけの利益を図らないよう監視することである。当然、大牙が股肱《ここう》の臣たちと謀議の機会を持たないように、細心の注意をはらい、ちょっとしたことでもそれぞれの国主に報告するのである。  もちろん、大牙が許可をしていることではないし、いちいち通告もされない。が、監視されていることがわからない彼でもないから、自然、疑惑をもたれるような真似はできなくなった。具体的にいえば、たとえば〈奎〉伯国以来の臣たちだけで集まることは、たとえただの酒宴ですら避けるようになったのだった。  現在の彼は、孤立無援だった。中でも、耿淑夜《こうしゅくや》が遠ざけられたことは、彼の孤立感をさらに深くしていた。  実際には、臨時のものにせよきちんとした官職と身分が与えられ、役目にふさわしい住まいも部下も持たされただけのことだ。〈容〉国の寄人《かかりうど》のそのまた寄人などというあやふやな立場でいたことを思えば、これは破格の出世ともいえた。  そもそも、耿淑夜は〈衛《えい》〉国から、五城の報奨の出ている身であり、実は、公式にはまだ、おたずね者のままである。亡命、逃亡中にひょんなことから大牙らと知り合い、〈魁〉と〈奎〉の滅亡の場に立ち会い、そして大牙に謀士《ぼうし》として望まれて今まで従ってきた。淑夜の才を高く評価している大牙は、〈奎〉国王などという実体のないものにまつりあげられたのちも、淑夜を自分の側近として置いておきたがった。頭はいいが直線的な物の考え方をする大牙にとって、淑夜は問題を整理し、異なる見方を提示してくれる大切な知恵袋だったのだ。だが、 「——問題がふたつあります」  淑夜自身が、指摘したのだった。 「〈乾〉伯や、その他のじじいどもの嫉妬なら、理由にならんぞ」 「なにを莫迦《ばか》なことをいってるんですか」  重荷が落ちて軽くなったといった笑顔で、淑夜は笑った。裾の短い上衣と袴《こ》という、戎族かなにかとみまちがうような姿である。せっかく無位無冠の庶人から士大夫《したいふ》の端にのぼったというのに、長衣をまとおうとしないのは、その左脚に原因があった。いうことをきかない脚を投げ出して座るにも立つにも、袴の方が便利だし見苦しくもない。 「それに、慣れてしまうとこの方がはるかに動きやすいですから。馬に乗るのも、こちらに限ります。それより、問題の話ですよ。ひとつは、私の他にだれが騎馬軍の編成をやれるか」  西の〈琅〉と戦をするなら、少数でいいから騎馬軍を急いで養成する必要があった。淑夜は、その騎馬軍を統括、編成する役を命じられたのだ。突然、少数とはいえ一軍の長になったのである。淑夜に、陣頭にたって戦闘指揮ができるはずはない。だが、〈奎〉にも、他の諸国にもそもそも馬に乗れる者がろくろくいないのだ。これまで、馬とは戦車をひかせるものであって、直接乗るものではなかったからだ。だから、馬に乗れる淑夜が軍を作るしかなかった。 「だが、西と戦わなければ、養成の必要もないだろう。だいたい、急ごしらえの騎馬軍など、なんの役に立つ。相手はあの、羅旋《らせん》だぞ」 「その議論なら、すでに決着ずみですよ。なんなら、今から東にむかって宣戦布告してもよろしいですよ。ただし、〈征《せい》〉を相手にまわして、絶対に勝てると保証してくださるならですが」  大牙は、嫌な顔を隠そうともしなかった。  東より、まず西を先に討つ。これは、国主たちとの間でも、さんざん議論されたことだった。かつて、中原《ちゅうげん》全土を支配した〈魁〉を復興させるのが、彼らの悲願であり野心であるが、そのためには戦をするしかない。東は〈征〉という大国が王を僭称《せんしょう》し、南にもまた同様に〈衛〉国がたつ。彼らにむかっていまさら、〈奎〉が〈魁〉の後をつぎ、おまえたちを支配すると宣言したところで、従うわけがない。とすれば、のこる解決法はひとつ。可能かどうかは別として、〈征〉と〈衛〉の二大国と、それに従属する小国を武力で屈服させるしかないのだ。  それについては、大牙にも異論はない。彼の故国、〈奎〉国は本来、かつての〈魁〉のすぐ東どなりに位置し、巨鹿関《ころくかん》という要害を守っていた。〈魁〉が滅んでさらに東から〈征〉が雪崩《なだ》れこんできた時に、〈奎〉の土地もまた〈征〉の版図《はんと》に組み入れられてしまった。  今、彼は〈奎〉王を名乗っている。正確には名乗らされているが、その基盤となる土地はない。そのかわり、〈奎〉の故地を奪回したら、その時は〈魁〉の旧領もふくめて大牙のものになるという取り決めが、〈乾〉伯たちとのあいだにかわされている。つまり、大牙は〈征〉を攻めて、少なくとも巨鹿関から西の土地を奪回しないかぎり、北方諸国の上にまつりあげられた、実権のない飾り物でしかないのだ。  では何故、今、東ではなく、西の〈琅〉を攻めるか。 〈征〉を攻める国力が、今の北方諸国にはないということが理由の一点目。〈征〉を攻めている間に、背後を衝《つ》かれないためというのが、二点目。東の〈征〉との間には大河があり、限られた渡河点の守備を固めれば、しばらくは持ちこたえられるが——さえぎるもののない西の〈琅〉から攻められた場合、どこでくいとめてよいのか、〈乾〉伯たちには見当もつかなかった。  さいわい、というべきか、〈征〉はここ二年の間、南の〈衛〉と国境線をめぐっての紛争を抱えて身動きがとれないでいる。二国の間は、国境を接している部分もあれば、小国をはさんでいるところもある。紛争の原因となったのは、〈鄒《すう》〉という国だった。元・国といった方が正しいかもしれない。〈衛〉の勢いの前に国主が逃亡してしまい、以来、〈衛〉の将のひとり、百来《ひゃくらい》が太守として治めるようになっていたからだ。 〈征〉の魚支吾《ぎょしご》が、この小国に目をつけた。もともと、〈衛〉の耿無影《こうむえい》は臣下からのなりあがりで、切れ者だがその分だけ、国内に反対者も抱えている。その跳ね上がり者たちをそそのかし、耿無影が自国を留守にしている間に〈鄒〉で謀反《むほん》を起こすように仕向けたのである。  結局、百来将軍の機転と確固たる意思によって、謀反は未然に防がれたが、〈征〉はすでに〈鄒〉に向かって兵を動かしてしまっていたから、それで収まらなくなった。出兵したのは、たいした数ではない。だが、その大義名分として「〈衛〉に不当に侵略されている〈鄒〉を、保護するため」という項目を掲げたために、いわばひっこみのつかない状態となった。ここで兵を引けば、〈鄒〉における〈衛〉の支配権を認めることになる。ひとつを認めれば、他の小国にも影響がおよぶ。  もちろん、四、六時中、戦をしているわけではない。春と夏に戦を起こせば、農作業ができず、収穫が見込めなくなる。食料が確保できなければ戦はできないし、民を飢えさせれば、他国に逃げられてしまう。それは、両国とも同様の条件であったから、戦は秋の終わりから冬にかけて断続的に起こり、決着をつけられないまま春に至って、自然に終息することになる。  喧嘩《けんか》を売られた形の〈衛〉が、敵を追い払えればよいという態度なのは当然だが、〈征〉もまた、大軍を出さず、申しわけ程度に戦い、損害を最小に押さえて撤退する。いくら〈征〉の国力が大きいといっても、一気に〈衛〉をおしつぶすほどの圧倒的優位にたっているわけではないし、新しい都を長泉《ちょうせん》の野に建設中なのである。  もしも、〈衛〉と〈征〉が激突するなら、新都が完成したあとだろうと、大牙も淑夜も見ていた。 〈衛〉と北方諸国との間には、険しい山地と大河とが何重もの自然の障壁を作っており、その上に先年かわされた密約がある。〈衛〉と〈征〉の膠着《こうちゃく》状態は、二年ちかく続いているし、まだ続くかぎり、双方とも北方諸国に本格的に手を出してくる余裕はないはずなのだ。  だから、今のうちに、西の〈琅〉をまず支配下において、後顧《こうこ》の憂《うれ》いをとりのぞく。ここまでは、大牙と淑夜も、同意している。  問題はそのあとだ。 〈琅〉の兵力、ことに〈琅〉の唯一の財産ともいえる馬を大量に手に入れ、それを東、または南の方面に投入して、まず〈魁〉の故地を奪回するもよし、〈征〉を屈服させるもよし——というのが、北方の国主たちの絵に描いたような理想だった。  だが現実は、けっして甘くない。〈琅〉もまた、手ごわい相手であることには間違いないのだ。いや、むしろ大牙は、〈琅〉の方を恐れていたといってもいい。それを淑夜は百も承知で、先に東を片付けましょうかと皮肉をいったのだった。 「おまえ——だんだん、人が悪くなってきていないか」 「そうかもしれません。だったら、よけいいいではありませんか。これからは、私の顔を頻繁に見ずにすむんですから」  淑夜の方には、屈託《くったく》も容赦《ようしゃ》もない。 「まさか、俺の顔を見たくないというのが、二点目の理由じゃあるまいな」 「拗《す》ねないでください。冗談をいっている場合ではないんですよ。私は、大牙さまのために人質になりに行くんですから」 「恩をきせる気か」 「そうですよ」  平然と淑夜はうなずいた。やわらかな笑顔をうかべながらのことでなければ、大牙もかっとなっただろう。 「どういう意味だ」 「文字どおりの意味ですよ。大牙さまが私を側近にして重用するということは、〈衛〉に対しての交換条件をご自分ひとりで独占すると見られます。私には、五城分の値打ちがあります。すくなくとも、〈衛〉の耿無影は私を引き渡すといえば、たいていの条件をのみますよ。その私を手元におけば、かならず国主方の猜疑《さいぎ》を生みます。〈衛〉との交渉の鍵を、ひとり占めするのかと、ね」  耿無影と耿淑夜、愛憎なかばしたふたりのいきさつを、大牙は知っている。同じ一族の中に生まれ、同じように才能を持ちながら埋もれようとしていた若者たち。ひとりはおのれの一族を滅ぼすことで〈衛〉一国の権力をにぎり、ひとりは復讐《ふくしゅう》のために彼の生命を狙って亡命者となった。  だが、耿無影が心底から彼の堂弟を憎んでいるわけではないと、大牙は感じていた。淑夜が、謀士として使えるだけの才能を持っているというだけではない。彼は、耿無影をはばめる人間であり、おそらく唯一、無影の凍りつくような孤独の本質を理解している人間でもあるのだ。  ——無影は、身体は生きていても、心が死んでいるようなものです。  淑夜は、かつては実の兄よりも慕った堂兄《どうけい》をそう評した。一昨年の秋のことだった。五年ぶりの再会を果たした後だった。  ——その無影が築く国とは、どんなものになると思いますか。  ——無影の精神《こころ》を殺したのは、私です。私には無影を止める責任があります。  そして、その資格と能力も、おそらく淑夜は持っている。無影もそれを知っている。大牙には、淑夜が止めにくるのを、無影が待っているような気がしてならなかった。 「たいした自信だ」  なかば皮肉でいうと、 「おかげさまで」  淑夜は目で笑った。 「だから、私は大牙さまの近くにいない方がいい。むしろ、国主方の近くに在って、いつでも捕らえて〈衛〉に引き渡せると思わせた方がいいんですよ。ご心配なく。めったなことではそんな事態にはならないでしょうし、なったとしてもなんとかしますから」  なんとかする——といったところに、大牙は安堵《あんど》と、別の不安とをおぼえた。出会ったころの淑夜なら、「なんとかなるでしょう」といったと思う。その彼に、他人まかせなりゆきまかせにするのでなく、自分から工夫をして局面を打開する積極さが出てきた。それが自身への信頼感から発しているのは理解できるのだが、どこかで無理をしているのではないかと思わせる、繊細なところも淑夜はまだ、その容姿のどこかに残していたのだった。  そして、淑夜は〈貂〉国へ発っていった。〈貂〉伯・夏子由《かしゆ》は以前から軍備に熱心で、馬ももっとも多く所有していたからだ。もっとも、〈貂〉伯国だけが騎馬軍を持つのではない。諸国から派遣されてきた男たちに、淑夜が馬の乗り方から教え、彼らが故国へもどってそれぞれに軍を編成するのである。  もともと武人でもなく脚も悪い彼が、みずから、馬の乗り方から訓練しなければならないのは、ひと苦労だとわかっている。身体を壊さなければと、大牙は案じていたが、悪い知らせは今のところ、はいってきていない。むしろ、こちらの悪いうわさが、むこうへ流れているだろうなと、大牙は低くつぶやいた。  実際、無駄なことをしているのだ。  今から、この草原に勝手に境界線を引き塁を築いて、〈琅〉の騎馬軍を食い止められると本気で考えているとしたら、大笑いではないか。  境界線については、根拠がないわけではない。このあたりにも、ごくごくわずかな村落がある。開拓の民といえば聞こえはいいが、中原から逃散してきた農民たちが、かろうじてしがみついている土地である。その小邑と小邑をつなぐ線を基準とし、その間の草原を長塁で封鎖しているのだ。  塁そのものは、土を積み固めて築かれている。溝を掘り、その土を積みあげ上から撞《つ》きかためるだけという簡素なものだ。このあたりは雨が少ないから、これでも十分に耐久性はある。高さは人の背ほどしかないが、馬に引かせた戦車なら頓挫《とんざ》してしまうから、これでもいいだろう。  だが、むこうが侵入してこられないということは、こちらからも出られないということだ。これでは防備にはよいが、攻めて出るには不都合だ。だから、塁は一定の間隔をあけて途切れている。戦になれば、塁の陰に射手を控えさせて、引き寄せられた敵を狙い撃ちしようというのだ。  戦車が相手の話なら、それでもいいと大牙も思っている。だが、国境線——と、こちらが一方的に決めたところに全部、塁を築ききれているわけではない。だいいち、馬なら楽々と飛び越えてしまうぞと、彼はひそかに思っていた。現在、〈琅〉には大牙の知っている人間がいる。そして、その漢《おとこ》は戦巧者《いくさごうしゃ》の上に、騎馬の達人であり、騎馬の兵だけで編成した軍を以前、大牙たちにむけてぶつけてきたことがあるのだ。  一般に、戦は馬に引かせた戦車と、それに従う歩兵だけで構成された軍同士がぶつかりあうものだ。戦車同士すれちがいながら、長柄の戟《げき》や戈《か》でもって相手の戦車上の兵と戦う——はたき落とすといった方がいいかもしれない。落ちた兵にとどめをさし、武器を回収するのが歩兵の役目である。戦とはそういうもので、他の道具を使ったり、道具を別の用途に使ったりしたことは、ここ百年ほどの間はなかったはずだ。  その戦の常識に、別の要素が持ちこまれたのが、一昨年の〈琅〉と、北方諸国との戦だった。〈琅〉は、馬に直接人を乗せたのだ。西方の戎族の慣習をとり入れたのである。もともと、戎族との交流と抗争の歴史が長く、西方の血もいくらかの割合で混じっている人々である。中原の人間より一段低く見られている戎族の真似をするについて、純粋の中原の人間より抵抗は少なかっただろう。馬に乗るについての技術的な問題も解決して、彼らは騎馬兵だけの一団を戦場に投入してきた。  結果、考えられもしなかった速度での移動が可能になった。予想以上の速度で攻めかけられた時の、ひやりとした感覚を、大牙は今でも思いだせる。  結局、まだ騎馬兵の数が不足で、決定的な脅威にはならなかったが、それでもあの時、耿淑夜があらかじめ騎馬軍の存在を想定して対策をたてていなければ、もしかしたら大牙たちは、弾《はず》みで敗れていたかもしれない。  一昨年は、淑夜の先見の明と、時間が大牙に味方した。  もともと、〈琅〉は馬の産地である。ただし、それは車を引く馬であって、人を乗せて命令をきくようにするには、それなりの訓練が必要である。馬に乗れる人間もまた、養成する必要がある。丸い大きな馬の背によじ登り、身体を安定させるには、相当な体力と高度な技術が必要なのだ。馬と人がそろったところで、すぐに戦で役にたつわけではない。馬という動物は、草食である。つまり本来は繊細で用心深い生き物だ。それを、人と人との殺し合いの中にいきなり乗り入れても、怯《おび》えて逃げてしまうだけだ。戦車という重荷があれば、逃れようもないが、身軽になり早く動けるようになるだけ、人の命令を聞かなくなる可能性も高くなるというわけである。  人を乗せて、戦場を縦横にかけめぐる馬は、〈琅〉にもまだそう多くない。故に、一昨年の戦では、騎馬軍は敵の攪乱《かくらん》のために用いられた。主力の戦はやはり、戦車同士の間でおこなわれ、北方諸国の連合軍が〈琅〉軍を追い散らすという結果になった。  これを、自分たちの「勝利」だといったのは、〈乾〉伯である。北方の諸国はいずれも小国ばかりで、〈征〉や〈衛〉に一国で対抗することはおぼつかない。だが、まとまれば、「侵入」してきた〈琅〉をとりあえず追い返すことは可能だった。ならば、盟約をきちんと結び、主をたて、その下でたがいに協力しあうことができれば、大国に肩を伍《ご》していくこともできるだろう。  そして、大牙が封地を持たない王に推戴され、〈奎〉という名のもとに北方諸国が盟約を結んだのだが——。 「我らは勝ったのだ。騎馬の兵など、恐れる必要はない」  それが、〈乾〉伯以下、諸国の国主たちの意見だった。  騎馬軍の有用性は、頭の堅い彼らも認めた。たしかに、あの移動速度には見るべきところがある。あの速度で攪乱されたら、困ることもある。それを阻止するためには、やはり騎馬軍が必要だろう。将来、〈征〉や〈衛〉を相手にする時にも、役に立つ可能性は高い。いずれ、〈征〉あたりが騎馬軍に興味をしめす可能性もあるから、一、二歩、先んじておいて悪いことはあるまい。耿淑夜を、騎馬軍編成を名目にして大牙のそばから引き離しておけるなら、一石二鳥というものだ——せいぜいが、この程度の認識である。  一昨年の戦でも、結局、主力は戦車同士のぶつかりあいになった。今後も、それが変わることはないだろう。それが彼らの認識で、いずれ、馬が戦の主力になるかもしれないなどとは考えたこともないらしい。 「馬に乗るなど、戎族のやることだ。中原の、しかも士大夫がやるべきことではない」  馬に乗る戦は卑しいとまでいわれた時には、大牙はそれをいった国主を殴ってやろうかと思った。 「戦に、上品も下品もあるものか」  敗れて逃亡する時の、胸がつぶれるようなみじめさを、大牙はまだおぼえていた。いや、一生忘れられないだろう。上品に負けるなどまっぴらだ。下品に——どんな卑怯《ひきょう》な手を使っても、勝たなければ意味がない。死んでしまえば、もう二度とやりなおしはきかないのだ。  大牙は、二度と負けたくなかった。そのためには味方を強くし、敵の手のうちをよく知ることだ。卑怯といわれようがなんと罵《ののし》られようが、かまうものではない。当面、〈琅〉を相手どると決めた時から、大牙は〈琅〉の国内をさぐらせている。  といっても、〈奎〉の旧臣たちを、使うわけにはいかない。彼らとの密談は極力避けなければならない状況だし、そんな器用な真似ができる人材もない。ただ、さいわい——というべきか、大牙には奥の手ともいうべき人脈があった。  尤家《ゆうけ》は、もとは〈魁〉の都の裕福な商家である。その当主は妙齢の婦人で、大牙や淑夜とも旧知の間だった。彼女本人は、〈魁〉滅亡ののち〈衛〉の国都に移っていったが、淑夜とは接触を保っていた。先年、〈衛〉の耿無影との会見を斡旋《あっせん》してくれたのも、尤暁華《ゆうぎょうか》その人である。その尤家の差配をしていた季《き》という老人が、〈魁〉の滅亡後、〈乾〉の国都に移り、〈乾〉国内の尤家の商売を一手にひきうけているのだ。  季老人と接触するのに、遠慮はいらない。大牙が、馬や武器などの調達を依頼するのは自然だし、季老人がその報告のために大牙のもとを訪れるのも、さほど妙ではない。尤家の者が〈琅〉との間を頻繁に行き来してもおかしくない。こうして、彼らがもたらす土産話が、大牙のもとに集まる仕組みになっていた。  もちろん、女主人の暁華の許可はとりつけてある。 『お力をお貸しするのはいっこうにかまいませんが、両刃《もろは》の剣《つるぎ》だということだけは、お覚悟くださいまし』  暁華は書簡で、大牙にそう忠告してきた。 『商人と申すものは、基本的にはどの国にも中立。たずねられれば、〈容〉や〈乾〉の国の噂や出来事を話してしまいます。話さなければ、取引ができないとなれば、絶対に沈黙などいたしません。もちろん、たずねられなければそれまでですが、赫羅旋《かくらせん》という漢《おとこ》が、一見粗暴なようでいて実はそうではないこと、よくご存知のはず。どうぞ、過信なさらぬよう。ご注意くださいますよう』  忠告されるまでもない。大牙もそれは、百も承知だった。そもそも、赫羅旋という漢はその昔、国境を越えて交易をする尤家の荷の、護衛役に雇われていた。彼が各国の地理に詳しく、さまざまな事情にも通じていたのは、その経歴のせいである。商人が目に見える商品の他に、目に見えないものも扱うことを、大牙に身をもって示してくれたのは羅旋なのである。  商人は、尤家に属する者だけにかぎらない。そして、〈琅〉には特産の玉《ぎょく》を扱う商人が、以前から大勢はいりこんでいる。彼らを手なずけて、逆に〈衛〉や〈征〉、北方の諸国のそこかしこに送りこむのは、むずかしいことではない。大牙がそれと気づく前に、相当数がすでに、〈乾〉や〈容〉にはいりこんでいるだろう。交易を制限することができず、商人をひとりひとり取り調べることができない以上、こちらの手の内はもう、ある程度知られているのだ。いまさら、無用な用心をしても仕方がない。せいぜい、羅旋とも旧知以上の仲である尤暁華が、羅旋と手を結ばないように願うだけである。 『ご心配なきよう。尤家のあつかう品の中には、信義というものもございます』  暁華の、艶然《えんぜん》とした笑顔が見えるような文面が、一応の保証を与えてくれた。だが、それは大牙が尤家に利益を与える可能性がある間だけのことだとも、承知している。  これまでに尤家から受けた有形無形の支援を、さてどう返していくか、それも大牙の頭痛の種のひとつだった。 「——陛下」  難しい顔をしたまま、むっつりと黙りこんで微動だにしない大牙に、周囲の人間たちが不審な顔をしはじめた。 「陛下。そろそろ、おもどりになりませんと、お身体に障りますが——」 「そんなやわな身体はしていない」  と、反駁《はんばく》しそうになって、大牙はことばを呑みこんだ。 「わかった。が、その前に塁をもう少し間近に見たい」 「それは、おやめになられた方が」 「危険でございますから」 「何が危険だ」  ふりむいて、つき従う車の上の者たちの顔をついにらみつけてしまった。どの顔も、悪意のある表情ではない。大牙の身を本心から案じている顔である。ただし、正確にいえば大牙の身に何事かあったら、それぞれの主人から叱責《しっせき》をうけるという心配の方が先にたっている顔なのだ。  忠実でないわけではないが、本心から彼の心中を理解してくれているわけではない。まして、彼の苦労をわかち持ってくれるわけではないのだ。 「あそこにいるのは、われらのために働いてくれる者たちではないか。せめて直接、感謝のことばを述べるなり激励するのが、上に立つ者の務めだと思うが、おまえたちはそうではないのか」 「しかし、相手は礼も知らぬ黎民《れいみん》でございます故」 「だから、俺にも礼儀知らずになれというか」 「『俺』とは、なんということを。朕《ちん》と仰せください」 「話を逸らすな——もう、いい。指図は受けぬ」  実は、話を逸らしたのは大牙の方である。側近たちの心配は、長塁の建設現場で働く民たちの上にばかりあるのではない。このあたりには、〈琅〉の先鋭軍が時々、出没するのだ。  当然の話である。  こんな大がかりな工事をしていれば、いやでも目につくし、なんのためか目的は一目瞭然である。 〈琅〉に正常な判断力を持った人間がいれば、建造を阻止しようと思うはずだ。少なくとも、完成が遅れれば、それだけ〈琅〉の方が有利になるのだ。 〈琅〉には人材がいる。しかも、政治の中枢に近いところにいることを、大牙たちは知っていた。  軍といっても、騎馬の兵が三十人ほどの少数である。兵というよりは、賊といった方が正しいかもしれない。というのは、長塁建造に従事する民たちが逃げれば、それ以上深追いしようとせず、残されたわずかな食料や工事用具を奪って、すぐに退却していってしまうからだ。長塁の建造は一か処だけではなく、本格的に攻めて阻止するには、〈琅〉の方にも力がないのだと大牙の周囲は判断していた。だから、少しでも建造を遅らせるために、頻繁に邪魔をしてくるのだと。  たしかに、それも真実のひとつだが、すべてではないと大牙は思っている。これが、相手の戦のやり方なのだ。馬の速度を最大限に利用して、急襲し、攪乱し、離脱する。 「あれは、戦などというものではない。賊のやりようじゃ。蠅《はえ》のようなものじゃ。工事がいささか遅れる程度で、たいした被害はなし、追えばすぐに逃げ失せる。身分の卑しい者が考えそうなことじゃ」 〈乾〉の国主の夏夷《かい》老人はそう評して、襲われたらなるべく抵抗せず逃げるよう、現場に通達を出していた。  たしかにその呼び方は正しいと、大牙は思う。逃げて、人的被害を最小限にとどめようという考えにも、賛成である。  だが、やりようが卑しいからといって、脅威にならないわけではないのだ。この方法を、もっと本格的な戦場で応用されたら、どうなるか。  その可能性は高い。〈琅〉の騎馬の「賊」の頻繁な出現は実は、実戦を模した調練をも兼ねているのではないか。そんな危惧《きぐ》を、大牙は抱いていた。多くの反対を強引におしきり、長塁の建造の視察を名目にこんな西までやってきたのも、実をいえばそれを自分の目で確かめたかったからだ。話を意図的にすりかえたのも、少しでも前線に出てみたかったからだ。  都合よく〈琅〉の兵が出現してくれる可能性は低いが、大牙の視察の噂が流れれば、何度目かには遭遇する機会もあるだろう——。  大牙は止められるより早く、御者《ぎょしゃ》から手綱《たづな》を奪いとってあざやかにあやつった。二頭の馬は、なんの前ぶれもなく突然、だっと走り出した。 「——陛下!」 「陛下、危険で——!」  背後でわっと騒ぎ立つ声があがり、さらに馬たちは驚いて、速度をあげた。勢いのまま、方向が逸れていきそうになるのを、手綱を引き絞ってこらえた。  昔、父の存命中は、〈奎〉伯の車の御者は大牙の役目だった。長い間——特にここ二年ほどの間、自分で車を操ったことはないが、腕力も技術も落ちてはいない。慣れた手つきで手綱をさばき、さらに馬を急き立てる。耳もとを切っていく風の音に、久しぶりにささやかな満足をおぼえながら、大牙は前方を見据えた。  車はなだらかな斜面を、いきおいをつけて下っていく。目標を確認するために、遠く投げかけた視線の先で、異変が起きた。 「…………!」  人々の動きが、あわただしくなった。なにごとか声は聞こえないが、叫びながら逃げまどっている。 「——来た」  それは、直感というより、天啓のようにさえ大牙には感じられた。 「襲来!」  背後に続く車の音の中に、絶叫のような指示が飛び交うのを大牙は聞いた。全身の血という血が沸騰するような快感を、彼はおぼえていた。  ゆるやかな隆起の上におどりあがった彼の目には、はるか彼方から近づく、一団の影が映っていた。  これが、数か月にもわたる〈琅〉と〈奎〉の戦——長塁の戦と呼ばれる決戦の発端になろうとは、大牙も、他の者もまだ気づいていなかった。  前方で、高く長く鯨波《とき》の声があがった。 [#挿絵(img/05_031.png)入る]      (二) 〈乾〉の国都へ急行する途中、淑夜と合流した冀小狛将軍は、会ったとたん、一瞬絶句した。 「耿淑夜、それは何者だ」  淑夜の乗った騅《あしげ》に馬首をならべ、後ろに二、三頭、替え馬を曳《ひ》いているのは、十四、五歳に見える孩子《こども》だった。ただの孩子なら、冀小狛も驚かなかっただろうが、緑がかった眼の色を見れば戎族の血をひいているのがすぐわかる。しかも、長い黒髪をふたつに分けて編みおろしているところを見ると、 「女ではないか。女孩子《おんなのこ》を連れて戦に行く気か」  車の上から見上げて、眉をつりあげた。その眉にも頭髪にも、白いものが増えたと淑夜は思った。 「行きませんよ。約束しましたから」 「誰と。いや、そもそも、何者か答えよ」  本人を目の前にして、なかなか訊きにくいことだ。しかも、ここにいるのは淑夜たちだけではない。それぞれ馬に乗り、替え馬を連れた若者たちが、十人ほど——さらに、声が届かない程度に離れたところに、百人余の一団が、すべて騎馬で控えているのだ。  だが、淑夜に対して遠慮のない冀小狛は、その部下とおぼしい者らにも遠慮する必要を認めなかった。戦場で鍛えた嗄《しわが》れた声で、 「これから我らが戦をするのは、戎族とつながっている連中だぞ。それを、承知の上で戎族の女などを、戦にともなう気か。そもそも、女を兵の中に加えておる話など、どこからも聞かなかった。陛下にも報告をしておらぬのだろう。わざわざ、悶着の種を蒔いてどうする気だ——」  冀小狛の取り越し苦労はまだまだ続く気配だったため、淑夜は中途でさえぎった。 「茱萸《しゅゆ》のことなら、大牙さまはご存知ですよ。尤家からさしまわされてきた娘です。尤夫人から、大牙さまにも、〈貂〉国主、夏子由どのにも、きちんと話は通してあります」 「これ、陛下と申しあげぬか。——尤家が何故、こんな娘を?」  律義にたしなめたが、冀小狛は追及を続けることは忘れなかった。 「飼育係ですよ、馬の。そして、指南役」 「指南? 馬の——?」 「ええ、乗馬の指南役です」  そういった淑夜のかたわらで、茱萸と呼ばれた娘は傲然《ごうぜん》と胸を張って、冀小狛を見下ろしていた。  ——二年前、騎馬兵の育成を上申し、大牙の後押しで許可されたものの、淑夜はひと月もたたないうちに挫折するところだった。  馬に乗るとひとくちにいうが、簡単なことではない。それは十分にわかっているつもりだった。彼自身、楽をしておぼえたわけではない。よそ目には拷問《ごうもん》ではないかといわれたほどきつい訓練を課せられ、何度も落馬をくりかえして、やっと身体になじませた技術である。  淑夜の場合、不自由な左脚という障壁があって、習得するのに時間がかかった。少なくとも淑夜はそう思っていたのだが、実際には原因はそればかりでないことがわかってきた。  淑夜の下には、最初、士大夫の子弟が送りこまれてきた。自国にもどったあと、それぞれの国で統率する立場にたって騎馬兵を養成、編成していかなければならないのだ。将来、人の上にたつべき者が集められたのは当然だった。  だが、三十名ほどの彼らは、淑夜に反抗的だった。というより、馬に乗るという行為に対して、抜きがたい抵抗感を抱いていた。 「馬に乗るのは、下賤《げせん》の者のすること」  士大夫たる者が、何故、戎族|風情《ふぜい》の真似をしなければならないのだ、という不平不満が、彼らの態度の端々から匂っていた。戎族風の短衣に袴という衣装が、彼らの不満を増幅した。士大夫の長衣に、彼らは必要以上の執着を見せたのである。  決して、淑夜の指示に従わないわけではないのだが、よろこんでやるという風にも見えなかった。馬を嫌っている態度も、ありありとわかる。よくしたもので、嫌われた馬の方でもそうした若者たちを嫌いぬいて、隙があれば振り落としにかかり、噛みついた。  淑夜の乗馬は、超光《ちょうこう》という名の騅である。脚が速く美しい上に、下手な人間より聡《さと》い馬だった。人を乗せる訓練を施した馬が少なかった初期のころ、超光を練習用にして乗せたが、ひとりとして乗りこなせる者がいない。骨折者が五人を越したところで、淑夜もあきらめた。 「士大夫でなく、庶民出身の若者をよこしてください。なるべく若く、身体が健康であれば、他は問いません。そのかわり、最初に百人。訓練が軌道に乗り次第、順次、数を増やしていきますから」  最初の三十人をつきかえし、大牙にむかって直接、書簡を送った。悠長なことをいっている場合ではない。すぐにでも実戦に投入できる人材が必要なのだ。  この際、古い慣習と矜持《きょうじ》にこだわって現実を見ようとしない連中には、用はない。各国ごとの騎馬兵の養成も、庶民からの徴用兵だけで編成をさせればいいことだ。なにも、士大夫が長にならなければ戦ができないわけではない——。  過激なことを考えているという自覚は、淑夜にもあったが、さいわい、口にも文字にもしないだけの分別はあった。  希望が聞きとどけられたのは、子弟たちを送りだした方にも不平不満があったからで、その点はさいわいした。これが将来、どんな事態を招く可能性があるのか、気づく者があるのではないかと、淑夜は案じていた。それが皆無に近かったのは、当面、淑夜にはありがたいことだったが、その一方で、古い習慣と思想とに固まっている者らが治める国の将来を考えると、暗澹《あんたん》たる思いにもとらわれるのだった。  ともかく人は集まったが、次に問題になったのは馬の確保である。  馬とひとくちにいうが、農耕、荷駄用の馬では役に立たない。人を乗せることにも慣れていないし、速度も期待できない。伝令用に西から導入されていた馬を、二十頭ばかり、商家から買い上げたが、絶対数がたりない。戦場で驚かないという点からいえば、戦車用の馬でも用が足りそうだが、戦車戦に重点が置かれている状態で、その馬を回せとはいいにくかった。 「仔馬を集めてください」  淑夜は、そう上訴した。 「戦車をひく馬の仔で、一歳仔か二歳ぐらいが一番いい。すべて、最初からやることにします」 『——そんなことをさせるために、〈奎〉からこちら、一緒にきてもらったのではないのだが』  ため息が聞こえるような返信が、大牙からもどってきたが、とにかく、淑夜の希望はほぼ、かなえられたのである。もっとも、反対が起きなかったのは実は、それだけ期待されていないということでもあったのだが。  馬の訓練は、最初から淑夜の手には余ることがわかっていた。  彼が乗りこなせたのは、最初から超光という駿馬と出会えたからだ。一から馬に物を教えこむ方法など、さすがの博識の淑夜も知らなかったし、他に頼れる者もなかった。  この点を解決してくれたのが、〈衛〉国に在る尤暁華だったのである。  事情があって、定期的に淑夜を尋ねて〈貂〉まで来る尤家の差配の季老人が、ある日、十二歳ぐらいの少年を連れてきたのだ。 「茱萸と申します」  と告げられて、さすがの淑夜も驚いた。  少年の姿をした少女だったのである。しかも、戎族の血をひいているのは、青みがかかった眼を見れば一目瞭然である。 「父親が戎族でして、十歳ごろまで〈琅〉の西の方で暮らしていたそうでございます。父親が亡くなって、母親とともに東へもどってきたものの、母親ともすぐに死別。引き取り手がなく、尤家で面倒をみておりました」  季老人ははっきりと語らなかったが、おおよその事情は淑夜ものみこめた。  おそらく、母親は戎族に拉致《らち》されていったのだろう。最近ではあまりないことだが、それでもまだ時おり、西から略奪に来る一団もないではない。西で戎族の妻になり、茱萸を生んだ。男が亡くなったのち、戻されたか逃げてきたか、とにかく故国へ戻ってきたものとみえる。だが、戎族の血をひく娘は歓迎されなかったにちがいない。結局、尤家がひきとったのは、帰国の経緯のどこかで、尤家の息がかかった商人が関わっていたためなのだろう。そういうことには黙っていられない暁華が、しばらくは自分の侍女として手もとに置いていたが、 『歩きはじめるより早く馬に乗っていた娘故、商家の奥向きにはむきませぬ。本人の希望もございまして、そちらにお預けいたします。ただし、あくまでお預けするだけでございます。三年のちには、あらためて処遇を考えてやらねばなりませんので、くれぐれもご失念なきよう』  いかにも暁華らしい文面の書簡を、季老人から渡されて、淑夜は苦笑したものだ。  人を貸すのは、あくまで馬の世話と養成のためである、戦場には出すな、という意味なのだった。尤家に、他に人材がないわけではないだろう。少年だろうが屈強な漢だろうが、馬に関して目のきく商人だろうが、手もとにはいなくとも、その気になればいくらでもさがせるはずだ。  だが、戦場に、尤家から派遣された者が出れば、それで尤家の旗幟《きし》は決定してしまう。たとえばもしも〈奎〉——北方諸国が滅びるようなことがあれば、尤家もそれに殉じることになってしまう。だから、少女をわざわざ選んでよこした。少年ならともかく、少女を戦場に出して戦わせようなどとは——少なくとも、耿淑夜は考えないだろうと見透かされてのことだった。  適度に肩入れはするが、どの勢力からも同じだけの距離をとる。それが商人たちのやり方で、尤家だけのことに限らないことを、淑夜もようやくのみこんできていた。 「それにしても——」  と、淑夜は季老人にむかって、苦笑して見せたものだ。 「まるで、尤夫人に試されているみたいですよ」 「人を使いこなすのも、ご器量のうちでございますよ」  季老人も含みのある笑い方をして、淑夜から数巻の書物を受け取り、良質の麻紙と少女とを残して帰っていった。以来、茱萸は淑夜の侍童となったのだった。  ちなみに、麻紙はこれから淑夜が筆写する書籍のための用紙、渡した書物は作業のすんだものである。かつて、義京《ぎきょう》の尤家には万巻の書籍が所蔵されていたが、〈魁〉が滅んだ時にそのほとんどが灰燼《かいじん》に帰《き》した。淑夜は、一度見た文章をそっくりそのまま覚えられる特技の持ち主であり、尤家にかくまわれていた時期に、相当数の書籍を読破している。つまり、彼の頭の中に尤家の書籍の一部が詰まっている状態なのである。  尤家からの支援は、この書籍の復元作業と引き換えという形になっている。すべてが相殺《そうさい》になるわけではないが、少しでも負債を軽くしておきたいという気持ちが、淑夜には強かった。  もともと、こうして紙や竹簡にむかって静かに文字を書いて一生を過ごすのが、彼の夢であり、向いた仕事だと思っていた。それがどこで狂ったのだろうと思うと、感慨も後悔も深くなる。深夜、ふと目が醒めてそのまま眠れなくなる夜が、淑夜にはまだ、たまさかにあったのだった。  茱萸は無口な少女だった。生い立ちと、東へ来て以来の体験が翳《かげ》を落としているせいかと思ったら、実は中原のことばをうまく話せないせいだった。  淑夜へ、自分から話しかけてくることはほとんどなかったが、馬の超光には彼女のことばで始終、語りかけ笑いかけるのだ。しゃくなことに、超光も他の仔馬たちも、あっという間に茱萸に手なずけられてしまった。  容貌は色黒で痩せており、十人並みといったところだが、まだ孩子である。二つに分けて長く編んだ髪を見なければ少年で通るが、年頃になれば、変わるのだろうと淑夜は思った。そういうことには疎《うと》い淑夜だが、暁華が思わせぶりな表現で彼に釘をさしたのは、惑わされるなということなのだろう。それとも、淑夜が惑うかどうか、いずれ試してやるという気でもあったのかもしれない。  ともあれ、茱萸の存在で淑夜はおおいに助けられることとなる。  馬は三歳ぐらいまでのものを少しずつ集めたが、世話と調教の指導はすべて茱萸に任せきることができたからだ。 「なにより助かったのは、茱萸が悍馬《かんば》を乗りこなしさっそうと駆けるところを見て、皆がやる気を出してくれたことでした」  孩子が——しかも女の孩子が自在に馬をのりこなすのだ。彼らの面子にかけても、落馬などしていられない。  戎族風の衣装も、庶民の若者はさほど抵抗感を持たなかった。農作業に深衣《しんい》を着る者はいない。半裸で野外に出ても平気な連中だから、むしろ動きやすい短衣は歓迎された。戎族の女からものを教わることにも、特に不満の声はあがらなかった。実力さえあれば、種族のちがいはある程度、棚上げにできるものだ。農耕馬と接してきた経験があるだけに、茱萸の腕がたしかなことを彼らはすぐに悟り、尊敬のまなざしさえ向けるようになった。  それに、小柄な少女がひとりで重い鞍《くら》や秣《まぐさ》を運んでいるのを、だまって見ていられるような薄情な男たちは、庶民出の中にはいなかった。  一年で、まがりなりにも騎馬兵とよべる一団が養成できたのは、ひとえに茱萸のおかげといっていい。翌年には増員も認められた。  人を乗せて長距離を走れるようになるには、馬の成長を待つ必要があったが、すくなくとも短期戦ならば、なんとか形になるだろう——そう、淑夜が判断したのが二年後の秋だった。  そこへ飛びこんできたのが、大牙の負傷の報だったのである。  至急、来いと命じられて、とるものもとりあえず、淑夜は〈乾〉の国都にもどったという大牙のもとにやってきたのだった。 「まったく、無謀にもほどがあります」  大牙に対面がかなったとたん、淑夜はそう申したてたものだ。  もっとも、正式の対面ではない。今の淑夜は大牙の直属ではあるが、身分は校尉《こうい》にとどまっている。いくら信任されているからといっても、ふたりだけの対面はなかなか許されるはずもないし、面とむかってこんな無礼な口をきけば、たちまち不敬の廉《かど》で罰を受けるだろう。  ちょうど回廊を渡ってくる大牙に、淑夜が行き会うという形で、ようやくふたことみこと、声がかわせたのだ。それも、淑夜が礼を執《と》るために、手にした杖を落とし、のろのろと膝をつきかけるのを見た大牙が、他の者より早足で近寄り、肩先をすくいあげるようにして立たせた、その隙に小声、早口に告げたのである。  大牙は、声にしては答えなかった。派手な擦り傷のある顔をかすかに笑ってみせただけだが、眼は躍っていた。 「ご自分の身を考えてください」 「考えたさ。だからこそ、負傷してみせたのだ」 「——早すぎます」 「これ以上、待てぬ」  今度は本気で太い眉を寄せて、大牙はきっぱりとつぶやいた。背後にもう、各国の国主が立っていて、 「耿淑夜、礼を執らぬか」  淑夜を預かっている形の〈貂〉伯、夏子由がうながしたが、 「よい、脚が悪いのだ。公の席以外は、免じてやってもよかろう」  大牙が、ひとことで黙らせた。  壮年の〈貂〉伯は不満そうに鼻を鳴らし、老人の域にある〈乾〉伯が、人のよさそうな笑みをちらりと見せた。この場でかわされた会話は、それだけだった。  目を伏せ頭を下げる淑夜の前を、〈奎〉という名の北方諸国の首脳たちが、衣ずれの音をたてながら流れ去っていった。  ほう、と、安堵とも失望ともつかない嘆息を吐いた淑夜の目の前に、とり落とした杖が無言のままさしだされた。 「——夏子華《かしか》どの」 「久しゅうございますな」 〈容〉伯国の国主の一族のひとり、夏子華だった。現在の〈容〉伯、夏弼《かひつ》はまだ若年で、遠い叔父にあたる夏子華が補佐をつとめている。 〈容〉伯、夏弼は今年十四歳になる少年だが、正直にいって凡庸《ぼんよう》以上の何者でもない。これが大牙の姪《めい》の苳児《とうじ》の、許婚者《いいなづけ》なのである。これは、大牙が〈容〉伯国に足がかりを作るための、政略であり、当初は大牙が夏弼の補佐をして〈容〉国を経営していくはずだった。それが、大牙が〈奎〉王の位にまつりあげられ、〈容〉の国都を離れたために、いまひとりの補佐役だった夏子華が、ひとりで〈容〉を切り回している。事実上は現在、子華が〈容〉の国主であり、他の国主たちもそう扱っているのだが、謹厳な人物で、けっして分を越えようとしない。  今も、国主たちの一団の最後尾を歩いており、だれにも気づかれずに、列から遅れることができたらしい。 「日焼けなされて——精悍《せいかん》になられた」 「子華どのこそ」  背が低く、陰気そうで風采《ふうさい》のあがらないところは変化がない。もともと〈容〉伯家の家宰《かさい》職にあって、家の収支の計算を一年中、不平もいわずにやっていた男である。誉められてもにこりともしないところも、以前のままだ。だが、一国をその手で動かしているのだ。やはりそれなりの貫禄《かんろく》というものが備わってきているのを、淑夜は見てとった。その上に、 「——何をお話しでした?」  声が届いたはずはない。子華に聞こえていたなら、もっとも近い位置にいた〈貂〉伯が詰問したはずだ。さすがの淑夜も、訊かれてぎくりと眼を見開いた。 「私は、貴殿の口を見ておりました。ご心配なく。内容までは聞き取れておりませんし、まずいことなら追及いたしません」 「国主方には、内密にお願いします。大牙さま——いえ、陛下の無謀をとがめだてしていました。昔の心安さで、つい」  気をとりなおした淑夜が答えると、 「そういうことにしておきましょう」  うっすらと笑った。だが、杖を使いながらゆっくりと歩く淑夜に肩をならべたところをみると、まだ尋ねたいことがあるのだろう。 「なに、淑夜どのは本来ならば、陛下の側にあって謀士役をつとめておられるべき方です。多少、不遜《ふそん》ないい方になったとしても、仕方ありますまい。——それで、あのお怪我《けが》を陛下は、どういいわけなさいました」  そうたずねられた時には、淑夜も覚悟ができていた。 「わざと、負傷されたのだそうですよ」  ——大牙の怪我は、実は、さっき見た顔の擦り傷と、足に打撲を負った程度の軽傷である。いざ、敵陣に突入しようとした直前、追い付いてきた味方の戦車に、接触されたのである。それがちょうど、大牙の車の御者が、不敬を顧みず大牙の腕にしがみつき、手綱を奪いかえそうとしていた最中だったため、制御を失って車が横転した。大牙は前述のとおりの軽傷。身をもって大牙をかばった御者も、右腕の骨折だけですんだ。  もともと、長塁建設に従事しているのは、兵として徴用された者らである。兵役の期間を短縮して、そのかわりに危険な重労働に当らせている。敵の襲来に対しては、すぐに武器をもてるよう訓練されていて、三十騎ぐらいの〈琅〉の兵からならば、自分たちの身を守る力は持っていた。ちなみに、それ以上の数が攻めよせてきた場合は、無益な抵抗はせず、すぐに撤退するようにと命令されている。近くの邑《むら》には伝令用の車を配し、〈乾〉か〈貂〉の国都を通じて、北方諸国へ一報を送り、正規軍の出動をうながす手筈《てはず》になっていたのである。  そんなわけで、いつものようにやすやすと獲物を奪いとれる気でやってきた〈琅〉の騎馬兵たちだったが、迎撃に出てきた何十台という戦車を見て、ほとんど戦うことなく退却してしまった。逃げ足は速かった。  被害は大牙の負傷だけで、他には怪我も奪われたものもない。だが当然、〈奎〉王、段大牙が前線に現れ、負傷して退いたことは〈琅〉に知れたはずだ。  報告を受けるはずの〈琅〉公、藺如白《りんじょはく》がどう出るか——その一点をめぐって、〈奎〉の国主たちの議論が沸騰したのも、当然のことである。  各地に分散していた淑夜たち、〈奎〉王直属の将兵が至急、呼び集められたのも、論議の帰結をにらんでのことだった。いざ戦ということになれば、冀小狛将軍らは〈奎〉王幕下の親衛《しんえい》兵——禁軍《きんぐん》とならねばならない。 「つまり、陛下はこちらから戦を起こされるおつもりなのですな」  と、子華がうなずきながらつぶやいた時にも、淑夜はおどろかなかった。この男は、平凡すぎる容貌の下に、他人にはない才を隠している。他人の行動、言動の意味するところを正確に類推できるのは、数字に明るいということと関連があるのかもしれない。  淑夜は、否定も肯定もしなかった。こういう人物が、一番苦手だった。  敵にまわして争うわけにはいかない。〈容〉は、大牙の即位の折りには全面的な賛意を示し、経済的な面でも助けてくれているのだ。だが、だからといって味方として信用しきるには、微妙に利害が対立しすぎている。  以前、大牙を〈容〉の摂政《せっしょう》の地位につけるために、淑夜が画策したことがある。正直な話、そうとうに悪辣《あくらつ》な手を使って、前国主、夏子明《かしめい》を罠《わな》にかけて失脚させたのである。それを、夏子華は見抜きながらだまって看過《かんか》した。夏子明が実力に過ぎた野望を抱き、〈容〉国そのものをあやうくしかねないと見て、次善《じぜん》の選択をしたのである。  以来、子華は淑夜たちに協力をしてくれる、数少ない人物のひとりである。しかしそれは、あくまで〈容〉国を存続させるための選択でしかなかった。また、淑夜の考えることなど見通せるのだぞという、子華の自信があってのことであり、〈容〉を滅ぼすような真似をたくらめば、どんな手段を使っても阻止をするぞという脅しを、淑夜は遠回しにうけている。  実際、大牙の行動の大半、淑夜の胸の内の一部はかなり正確に読まれている。淑夜が心底に隠していることを、今、国主たちに暴露されたら、〈奎〉にいられなくなるどころの話ではなくなるだろう。  淑夜の顔に、警戒の色がうかんだはずはないが、子華は思わせぶりにうなずいてみせた。 「お怪我を口実に、〈琅〉に難癖《なんくせ》——失礼、〈琅〉を詰問なさって、戦端を開かれるお心づもりなのでしょう。——そう警戒しなくとも、よろしいですよ、淑夜どの。考えておられることは、だれにも話しませんから」 「——なにも、考えてなどいませんよ」  と、ふつうの相手になら、淑夜は答えてごまかしたかもしれない。だが、この男相手に無用の隠し立ては、かえって不信を招く。 「やはり、時機|尚早《しょうそう》と考えてくださいますか」 「淑夜どのの考えておられることに関しては、そうでしょう。しかし、私も興味深く見せてもらっていますが、馬の育成には時がかかり過ぎる。よいのですか——?」 「なにが、です?」 「この調子では、一生、かかってしまうのではないですか。淑夜どのの悲願がかなうまでには」 「…………」  淑夜は足を止めて、じっと相手の両眼をのぞきこんだ。  めずらしく、夏子華は笑っていた。風采《ふうさい》のあがらない壮年の男が、笑うと、油断のならない才子にも、年長者の風格のある大人にも見えた。  沈黙が続く。  その間、子華は急き立てるでなく、じっと待っていた。 「——かまわないつもりでいます」  その決心はずっと以前についていた。長すぎる沈黙は、子華に告げていいものかどうかの判断に手間取ったからだ。  耿無影に再会し、その胸の内に巣食う虚無をのぞいた時から、淑夜は覚悟を決めていた。彼の生命さえ懸けた意図を阻むのだ、一朝一夕でかたづくような簡単な仕事ではない。淑夜自身の一生を懸けなければ、無影に対しても公平ではないだろう。同時に、無影をただこの世から消せばよいという問題ではないことも、彼は二年前に悟ってしまった。  無影の築こうとしている世界を否定するなら、それに替わり得る世の中の仕組みを作らねばならない。すくなくとも、こういうものだと具体的な形で提示できなければ、無影を倒したところで、次にやってくるのは、さらなる混乱と憎悪の時代だけだ。  構想は、淑夜の頭の中でまだ、漠然としたものでしかない。これがきちんとした形になるには、おそらく彼の一生が必要だろうし、それが実現するには——さらに二、三世代ほどの時間がかかるかもしれない。 「焦ってはいませんし、正直な話、私も急激な変化は望んでいませんから。騎馬の兵も役に立つでしょうが、当分の間はまだ、戦の主役は戦車でしょう。それは〈琅〉だとて、同じ条件だと思いますし、すべてが変わってしまうまでには、もっと時間がかかるでしょう」 「それを聞いて、安心しました」  子華の眼がかすかに底光りするのを、たしかに見たと思った。 「〈容〉を守るのが、私の役目です。とはいえ、死んだ後まで責任をとるわけにはいきません。淑夜どのには申しわけないが、変化はなるべく、遅くやってきてくれるとありがたい——陛下のお考えは、またちがうようですが」  淑夜は苦笑するしかなかった。  大牙の焦燥感は、淑夜も理解できる。国を持たない王は、どこまでいっても飾りものだ。大牙のことだから卑屈になることはないまでも、国主たちに遠慮することはある。だいいち、意見がまっすぐには通らない。彼自身の軍を持ち、彼自身の経済力を持ってはじめて、国主たちの上に立って命令を下すことも、彼らをあやつることもできる。〈魁〉を復興するにしても、〈奎〉という名の新しい国を作るにしてもまず、旧領をとりもどすことだが、そのために長い遠回りをしなくてはいけないのだ。 「何年、待てばいいのだ」  もともと短気な性格である。しかも、自国の崩壊を食い止められなかったという後悔が、その焦燥を加速している。是非とも自分の生きているうちに、その目で〈奎〉の再興を見たいという大牙の気持ちを、淑夜は責められなかった。  淑夜もまた、目の前で亡くなっていった老〈奎〉伯、段之弦《だんしげん》と、大牙の兄、段士羽《だんしう》のことを思うと、胸がいらだつのを押さえられなかったのだ。  二年、大牙を待たせた。  これ以上、何をいっても彼は耳に入れるまい。また、国主たちも、大牙に反対はするまい。大牙たちが国力をたくわえている間に、当面の敵である〈琅〉もまた、着々と対抗手段を講じているにちがいない。時は必要だが、時が経ち過ぎても意味がない。 「戦になりますな」  他人《ひと》ごとのように、夏子華はつぶやいた。 「それも本格的な——長い戦になると思います。どうか、身体に気をつけられるよう」  ていねいな口調でそう告げて、同じような穏やかな仕草で礼を執った。その口ぶりに、予言のような奇妙な響きがあったのに、淑夜はふと不安をおぼえた。 「子華どの」  いったん背をむけた子華をよびとめてから、なんといえばよいのか、淑夜はとまどった。話しておくべきことなど、なにもないはずだった。 「これから、どう——」 「〈容〉へもどります」  なんの不思議があるのだという顔で、子華は答えた。 「私の役目は、〈容〉を守ることです。戦になるならば、なおのこと、後方の守りを固めねばなりません。戦になれば、かならず〈征〉が動きます。それの牽制を、〈衛〉にばかり任せておくわけにもいきません」  淑夜も、それには素直にうなずいた。 「——お願い、します」 「命を惜しまれるよう。なにがあっても、死んではいけませんぞ、淑夜どの。生きていてこそ、願いはかなうのですから」  再度の予言めいた口調をのこして、夏子華は去っていった。淑夜も今度は呼び止めなかったし、おそらく呼んでももう振り向かなかっただろう。  淑夜はその場にたたずんで、何故かしら、子華を見送っていた。彼の薄い背中が回廊の角を曲がって見えなくなっても、しばらくの間、じっとその一点をみつめていた。  これが、夏子華の姿を見る最後になるとは、さすがの淑夜にも予想できなかったが。      (三) 「例の物は来たか」 「来た」  その漢は〈琅〉公の前にあらわれたとたん、明るい声で事実だけを問うた。〈琅〉公もまた、事実だけを簡潔に答えた。 「まったく、手間のかかる奴だ。いまだにいちいちごたくをならべ、予告をし、場所を指定しなけりゃ、戦ひとつできんのか。約束ずくで戦に勝てるつもりなら、最初から戦などしなけりゃいいんだ」 「そういうな、羅旋。大義名分がなければ、戦はおこせぬ。まして、中原の正統の王を名乗る者が、横車を押し、不義の戦をしかけるわけにはいくまい。戦がしたくて待ちかまえているおぬしとは、わけがちがう」  どかりと、目の前に脚を組んで座りこんだ赫羅旋を、〈琅〉公、藺如白はそんなことばでなだめた。  この場に、人はふたりだけではない。羅旋は、〈琅〉の有力な将のひとりであり、如白の義子《ぎし》でもあるが、あくまで立場は臣下である。だが、羅旋の口調をとがめる者はおらず、無礼を指摘する者もなかった。この場に集められた者はみな、程度の差は多少あれ、同じような態度と口調を許されている——というより、認められているからだ。 「茣原《ごげん》のようすは、どうだ」 「あいかわらずだ」  昨日会った者のような会話だが、羅旋が本拠としている茣原は、この〈琅〉の国都・安邑《あんゆう》から西へ数日はかかる辺境の小邑である。しかも秋という季節は、冬に備えての準備で忙しくなる時で、例年、羅旋は茣原にいったきりになる。そこからわざわざ急使で呼び出されたことで、羅旋は如白の用件を前もって察することができた。だからこそ、文字どおり夜に日をついで、この夕刻、ようやく安邑にたどりついた。そして、まだ髪にも鬚にも埃がまとわりついている姿で、国主の館の中でもっとも奥まった一室に現れたのだ。 「とにかく、まずこれを読んでみてくれぬか」  と、羅旋に一枚の帛《きぬ》を渡したのは、髪も長い髯も真っ白な老人である。名を羊角《ようかく》。〈琅〉のみならず、中原諸国の中でもっとも年長の将軍だろう。  さしだされた帛をひと目見て、羅旋は顔をしかめた。 「どうせ、決まり文句しか書いてないだろう。俺が読んでも、仕方あるまい」 「だれが、文章を吟味《ぎんみ》してくれと申した。玉璽《ぎょくじ》の印影を確認しろというのじゃ」  羊角は口が悪いが、底意はないのを承知している羅旋だから、しかめた顔のまま手を出して帛を受け取った。 「なに——勝手なことを書いているな。王土を侵略し、略奪をくりかえしたのみならず、玉体を損じ——かすり傷だろうが。そろそろ治っているはずだぞ」  大牙の負傷はもちろん、怪我の程度も羅旋のもとには情報がはいっている。さらにいえば、この一件を本拠地の茣原で聞いた時から、こんな文書が突きつけられてくることは十分予想していた。ここでわざわざ読み上げて難癖をつけているのは、ただ、羊角老人へのあてつけでしかない。 「読む必要はないと、いうておろうが。我らはもう、二十回は読んでおるわい。印影を見よ、印影を」 「何度もいわれなくても、わかっている。本物だ」 「まちがいないか」 「一角が缺《か》けている。俺が大牙に渡したものにちがいない」  その一角は、彼が缺いたものだ。その時、玉璽は太宰子懐《たいさいしかい》の懐《ふところ》にはいっていた。〈魁〉王を弑《しい》した子懐を羅旋が斬った時に、その剣の端が、玉璽の角をも削ぎ斬ったのだ。その後、手中にした玉璽を羅旋は、餞別《せんべつ》がわりに段大牙にゆずってしまった。 「いまさら、こう申すのも莫迦莫迦しいがな、赫羅旋。何故そのようなものを、他人にくれてやった。まったく、面倒なことをしてくれる」 「何故といって、俺が持っていたところで王になるわけではないのだ。必要なかろう。それとも、持っていたら王になれたとでも?」 「——まあ、それはそうだの」  反論されて、老人はあっさりと折れた。 「たしかに、持っているからとて、王だと誰もが認めるようになるわけでもない。現実に、〈征〉も〈衛〉も、段大牙を王と認めたわけではないし。ただ、やはり、賊だの叛徒などといわれると、わしらのように古い人間は多少なりとも、こたえるでの」 「本気でそう思っているなら、今からでも遅くない、〈奎〉へ逃げたらどうだ」 「なにをいうか」 「そのあたりにしておけ」  藺如白の、いささかうんざり気味の仲裁《ちゅうさい》がそこでやっとはいった。この座の中で口が達者なのは、最年長の羊角と最年少の羅旋だけなせいか、ふたりが顔をあわせると、すぐにこんな調子の口論になる。といっても、実はふたりとも、お互いが本気でないことは百も承知だ。本気になっていれば、羊角は羅旋の〈琅〉からの追い出しを謀っているはずだし、羅旋も羊角が自然死するのを待ってなどいないだろう。ふたりの口論は、いってみれば双方の世代差を埋めるための手順なのだった。 「羊将軍、おとなげないぞ。羅旋も、口が過ぎる」 「茣原は、娯楽が少なくてな、つい」  羅旋は、主君の叱責《しっせき》をそんなことばで軽く受け流した。が、これも、とがめるものはない。羅旋の態度が、口調とは裏腹に目に見えて神妙になったからだ。もともと背筋の伸びた漢だが、真正面から如白の顔を見る目に真剣な色が宿ったのを、見抜けないような人間はこの場にはいない。 「本題にはいりましょう」  前置きも合図もなく、いきなり羅旋の前に地図が広げられた。幅広の麻布には、半分に〈琅〉、半分にその東の地形が描かれていた。東の端には、〈魁〉の都であった義京が記されている。昔、義京までの道筋を示すために作られた地図なのだった。  地図を広げたのは、方子蘇《ほうしそ》という。〈琅〉の将軍としては年少の方で、三十代後半だが、堅実にして沈着、温厚で、文と武の均衡《きんこう》のとれた人物として知られている。如白の信頼も厚く、羊角将軍のあとを継いで〈琅〉の大将軍となるのは彼だろうと噂されていた。もっとも、肝心の羊角がいまだ矍鑠《かくしゃく》としており、ひとたび戦があれば戦場でひと働きもふた働きもできる状態である。野心のある人物ならば相当な落胆を強いられるところだが、方子蘇はいっこうに気にかける風はない。むしろ、重大な責任がふりかかってこない分、気楽だと公言してはばからないのである。 〈琅〉という国の特殊なところは、人物の能力本意で評価が定まるという点、そして重臣たちがそろいもそろって、個人としての欲望に乏しい点だろう。  方子蘇は地図を広げおわると、意見を求めるように羅旋を見、 「勝算は、あるか」  たずねたのである。 「——その前に、確認させてくれ、方将軍。戦を回避する気は、〈琅〉にはないのだな」 「その気がないのは、段大牙の方だろう」  方子蘇のかわりに、如白が応えた。 「こんな時が早晩来るのは、目に見えていたではないか。我らが〈奎〉に臣従の意を示し朝貢《ちょうこう》でもしないかぎり、大牙は——いや、北方の国主たちは攻めてくる。〈奎〉が攻めてこなければ、いずれ〈衛〉が攻め寄せてくる。でなければ、〈征〉がな。だが、いまさら他のだれかに頭を下げ、属国だ夷狄《いてき》の地だとさげすまれて生きることはできぬし、勝てるかどうかは別として、戦をしなければ〈琅〉は生き残れぬ。しかし、こんな道理は、おまえには十分すぎるほどわかっていると思っていたが」 「覚悟のほどが聞きたかっただけだ。では、他の方々の意見も一致だな」 「くどいぞ、羅旋」 「羊将軍、これはどうしても確かめておかなければならないことだ。この二年の間に、多少増えたとはいえ、〈琅〉は兵力においては劣る。相手は寄りあい所帯とはいえ、〈琅〉の二倍はかき集められるはずだ。そうだな?」  と、これは、方子蘇に向けた問いである。子蘇は、無言のまま眼でうなずいた。 「具体的な数は」 「〈乾〉が一万五千、〈貂〉が一万。他の小国があわせて二万五千。〈容〉が一万の兵を編成している。他に五千の兵を東の国境へ配備する。他の国も、それぞれの国の守備に、三千から五千の兵を温存する見込みだ」 〈奎〉が滅んだ当時、擁していた軍がやはり一万五千ほどだった。同じ規模の伯国である〈乾〉や〈容〉の動員数としては、このぐらいがせいいっぱいだろう。無理をすれば、八、九万の軍を編成できるだろうが、それを全部〈琅〉に向けてしまうと、それぞれの国の守り、特に東に向けての守りが留守になってしまう。  ちなみに、同じ時に〈征〉の魚支吾が動かしたのは十万。おそらく、現在なら十二万弱の兵は動員できるだろう。国力の差はいかんともしがたいが、〈征〉と全面衝突するのでなければ、数万の兵を国境に配備しておけば事足りる状況である。 「あわせて、ざっと六万。それから、これはすでに羅旋どのの耳にはいっていると思うが、騎馬兵が五百人に足りぬほど」 「聞いている」  と、羅旋は、片頬で笑った。 「六万か」  羅旋が把握している〈琅〉の兵力は、三万五千。これが全力で、あとはない。そのうち、騎馬兵が三千弱を占める。決定的なものではないが、単純に兵の数を比較するなら、絶対的に不利だ。ただ、戦は兵の数だけでするものではないと、羅旋はいった。 「多勢に、無勢の〈琅〉が対抗し得る強みといったら、たった一点しかない」 「何だ」  と、羊角が膝をのりだす。 「一致挙国。内訌《ないこう》を防ぎ、国力すべてをあげてあたるしかない。逆に、敵が内訌を起こしてくれるならば、なおありがたいがな」  そこで、思わせぶりにひと息ついた。その場にいる人間の目が、一様に底光りを見せた。全員が、羅旋の言外の意味を理解したのである。 「内訌か」 「さいわいなことに、いや、連中にとっては不幸なことにちがいないが、〈奎〉王と、諸国の国主たちとの利害はかならずしも一致していない」  羅旋は、おもしろくもなさそうに告げた。各国の内情は、いまさら解説するまでもなく、周知の事実である。今日のあることをにらんで、以前から細作《さいさく》は送りこんであるし、各国を往来する商人たちの噂話を丹念に聞いていけば、各国ごとの事情も手にとるようにわかる。  商人といえば、〈奎〉の段大牙には尤家の援助があることも知れている。尤家の商人が〈琅〉国内を探っていることも、それが大牙に筒抜けになっていることも、羅旋は承知している。だが、商人は中原に尤家だけではないし、直接の援助をあおがなくとも、利用の方法はいくらでもある。極端な話、尤家の商人たちを、逆に利用する方法さえあるのだ。 「各国の国主たちの利害も、一致していない。〈奎〉という、実態のはっきりとしない国の勝利よりは、自領の利益の方を優先する奴が、かならずいるはずだ。それがうまく利用できれば、勝機をつかめるだろう。六万の軍勢を擁していても、一万ずつしか出てこなければ、三万の兵力で十分勝てる道理だ」 「つまり、自領の方でなにか揉《も》めごとが起きれば、一万五千が一万、いや、五千になる可能性もあるということじゃな」  羊角が、白髯をしごきながらうなずいた。 「たしか、〈貂〉は後嗣争いの火種を抱えていたはずだな」 「なるほど——」  相続争いが自然に起きるのを待つほど悠長な場合ではないことを、この場の全員が承知している。 「それから、たしか、〈貂〉と〈崇《すう》〉の間にも、境界線の争いがあったはずだ。それを再燃させてやれば、六万が半分とはいわないまでも、四万か五万に減らすことは可能だろう」 「気配だけでよい。〈征〉に背後で動くふりをさせるというのは、どうだ」  羊角が、勢いこんだ。最年長のくせに、もっとも血の気が多い老人である。だが、羅旋は首をたてに振らなかった。 「〈征〉が勝手に動くのはかまわんが、こちらから頼むと、あとが面倒だ。それに、〈衛〉とのいざこざをかかえて、魚支吾は慎重になっている。たとえ約束をとりつけたとしても、あてにはできない」 「ふん、どうせ、わしの案は使えぬよ」 「ひがむな、羊将軍。羅旋の申しているのは、正論だ」  如白の仲裁がはいったが、これは形だけのこと。羊角が本気で気を悪くしたのなら、この場におとなしくとどまっていないことを、全員が知っている。 〈琅〉は人口が少なく、中原で士大夫として通用する人間も、〈琅〉伯直属の臣もたいした数はいない。だがその分、たがいの気心は知れている。悪口雑言のふたつ三つぐらいでは、決定的な事態にはなりようがない。臣下の間だけではない、〈琅〉伯にむかっても反対意見が遠慮なく述べられる空気が、ここにはかもしだされていた。 「しかし、羅旋どの。相手の軍勢を小出しにさせるのはよいが、そうすると長期戦にならないか」  と、方子蘇が疑問を提示したのも、その気安さがあってのことだ。 「たしかに、三万で一万の軍は蹴散らせるが、それを五度もくりかえされれば、兵は疲弊《ひへい》する。糧食も武器も、足りなくなる」 「そのとおりだ」  羅旋は動じない。方子蘇にむかってうなずくと、 「だが、三度ぐらいなら、持ちこたえられるだろう」 「三万対三万か。それならば。だが、そのあとの三万は?」 「食糧は、むこうも同様に減る。その上に、我々より疲弊させてやれば、条件はおなじだ」 「——どうやって、三万を疲れさせる」 「戦場は変えられるものだ。どこで、いつ、戦をしようなどという盟約は、連中だけのいいぶんだ。俺たちが出ていかなければ、もしくは、敗れたふりでもして退けば、むこうから〈琅〉国内まではるばる、やってこなくてはならんだろう」 「つまり、敵を引きこむというわけか。だが、〈琅〉を戦場にするのは」 「さいわい、戦場にむいた土地はいくらでもある。〈乾〉や〈貂〉のように、ひらけた土地はみな耕作地というわけじゃない。土地勘がある分も、俺たちに有利に働くはずだ」 「相手も莫迦ではあるまい。来なかったらどうする」 「少なくとも、〈琅〉が負けたことにはならんだろう。〈琅〉から戦を仕掛けたことではないし、望んでもいないはずだ」  だが、そんな楽観的な事態にはならないだろうと、羅旋の緑色の眼が語っていた。〈奎〉と北方諸国は、勝たねばならないはずだ。〈琅〉の臣従を確実なものにしなければ、将来起きるはずの〈征〉との戦に勝つことはできない。 「——だが、もしも〈琅〉国内の戦で敗れたら、我我はどうなる」 「どうにもなるまい」  羅旋は、方子蘇の追及をあっさりと交《か》わした。いや、その質問を待ちかまえていたのかもしれない。 「〈琅〉は——滅びる、か」  不吉なことばを、ゆっくりと口に出したのは、国主たる藺如白である。その顔色は存外平静で、むしろ羅旋の方が、 「負ければ、の話だ」  訂正したが、如白はしずかに首を横にふった。 「いや、楽観は禁物だ。だが、だからといって、最初からあきらめようというのではない。敗れても、〈琅〉という国の形が崩壊しても、再建の道さえ残せるならば、恐れることはあるまい」 「再建——と申しますと?」 「そなたなら、わかるな、廉亜武《れんあぶ》」  如白の落ち着いた低い声に応じて、さきほどからひとことも口をきかず、目すら伏せたままただ座っていた最後の人物が、ゆっくりと目をあげた。まるで眠っていたのが、今、目醒《めざ》めたといった風だったが、居眠りをしていたわけではないことは、上座の如白の眼をじっと見かえしながら、はっきりとうなずいたことでわかった。  中肉中背の、平凡な容姿である。年齢は、如白とほぼ同じぐらい、五十歳に手が届くか届かないかといった頃である。一座の目が自分に集まっているのに気づいて、ふたたび目を伏せた。 「廉亜武どの」  羊角がていねいに声をかけると、視線は落としたまま、だが、問われた意味はわかったようで、ひとこと、 「戎族の生き方をせよ、と?」  ぽつりと応えた。 「戎族の、といってまさか略奪を——」  方子蘇がいいかけて、口をとざした。羊角のとがめるような視線と、羅旋のおもしろそうな目の光と、双方に気づいたからだ。 「そうではない。都を定め、決まったところに住んで国境を定めなければ、国と呼べぬのかといっているのだ。そうだな、廉亜武。羅旋にも、わかるだろう」 「どうせ、〈奎〉も他の連中も、すぐに東方に気をとられて、こちらは留守になる。敗れた場合は、いったん西へ退けばいい。ここでふみとどまって、玉砕《ぎょくさい》するのは愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》だというわけだ」 「しかし——西には」 〈琅〉の西が無人というわけではない。広く過酷な土地に、戎族が遊牧と略奪の暮らしを展開している。そこへ、〈琅〉の民がただ逃げこんでいっても、軋轢《あつれき》が起きるだけだ。 「それとも、我らに戎族となれとおおせになるか、殿下」  方子蘇が、かすかに色をなした。  彼は、父親の代になって〈琅〉に仕えた者で、その身のうちに戎族の血は一滴も流れていない。幼いころの記憶もあるだけに、戎族に対しての抵抗感がまだあるのだろう。  だが、これをいい出した廉亜武もまた、三十歳を過ぎてから〈琅〉へ流れてきた者である。それを横目でにらみながら、 「私は、廉亜武どのとはちがって、戎族とつながっているわけではありません。戎族にはなれぬし、戎族でも我らを受け入れますまい」 「それは——方将軍のお心次第でしょう」 「どうせ、私は狭量だ」 「方将軍、拗ねるな」  羊角が、年長者らしくなだめた。如白も苦笑しながら、 「——どうも、万が一の話が過ぎたようだ。戦をする前から、負ける話をしても仕方がない」 「いや——負ける話はさておいて、戎族との関係を良好にしておくのは悪くない」  羅旋が、如白よりも苦い顔を露骨にみせながら、低くつぶやいた。 「〈奎〉と同じ道理だ。後背を安全なものにしておかなければ、戦はできん。戎族を臣従させる必要も意図も、俺たちにはないし、さいわい、ここ数年、廉亜武どののおかげで戎族との間には、さして問題も起きていない——」  羅旋の緑色の両眼が、妙な底光りを見せて、意味ありげに廉亜武を見た。 「どうだ、廉亜武どの」 「——方将軍のおっしゃるとおり、私の室《しつ》は戎族の部の長の縁者です。その伝手をたどれば、西方の部と交渉するぐらいのことはできましょう。一時の間、東への手出しを控えさせる程度のことは、可能でしょう。もっとも、それに見合うだけの代償が必要でしょうし——一部の部とは、交渉そのものが不可能だとは思いますが」  と、今度は廉亜武が、いわくあり気な視線を羅旋にむける番だった。扉をたてきった室内に灯火はあるが、真昼の陽光の下とおなじというわけにはいかない。その薄闇の中で、羅旋の緑の両眼が、また異様な光り方をしたようだった。 「〈琅〉に、余裕があるわけではない。彼らの望むだけのものが用意できるかどうかは、わからない」  如白が、考え考え、ことばを選びながら告げた。 「だが、戎族との共存を考えなければ、〈琅〉は生き残れぬ。いっそ、彼らを味方につけることができれば、この戦もずいぶんと楽になる——」 「殿下」 「交渉の使者となってくれるか、廉亜武」  彼の視線は、発言をしている主君にではなく、羅旋の上にくぎづけになっていた。羅旋が、ゆっくりと光る目で見かえした。嗤《わら》っていたのか怒っていたのかは、傍目には判然としなかったが、廉亜武はそ知らぬ顔で目を逸らし、 「承知いたしました」  ほっと、吐息をつくように承諾の返事をし、如白にむかって一礼した。 「——よろしいでしょうかな」  扉の外から低い、だが人をくったような口調がかけられたのは、そうやって一瞬、空気がまずくなった時だった。まるで、準備して待っていたような息の合い方に、羊角が白い眉の片方を引き上げながら扉をあけた。  声の主は、わかっていた。この部屋に、こうして近づける人間は限られている。そして、〈琅〉公、藺如白の主治医という立場を与えられている人間ならば、どこへ行こうと自儘《じまま》だった。 「いかがした、五叟《ごそう》先生」  痩せた老人が、頭を下げるでなくそこに座っていた。異相とでもいうのだろうか、貧相きわまりない顔つきに、目だけが悪童のように輝いている。その眼つきで、 「軍議中のところを失礼いたしますぞ。実はたった今、天文を見ておりまして、おもしろい事象を見いだしましたので、お知らせにあがった次第」 「また、あたりもしない占卜《せんぼく》か、五叟」  羅旋が、うんざりとした調子で応じると、 「あたらぬ占卜とはなんじゃ。占星は、古来、王侯が修めるべき立派な学問じゃ。その上に、この莫窮奇《ばくきゅうき》めが研鑽《けんさん》に研鑽を重ね独自の方法を編み出して、おぬしらの先行きを占ってやったのじゃ。儂《わし》の学識と努力と厚意とを莫迦にするなら、雷火をお見舞いしてくれるぞ」  七十歳か八十歳か、とにかく外見はとてつもない高齢に見えるのに、下手をすると羅旋をしのぐ威勢のよさである。 〈琅〉での身分は、とりあえず今のところは太医となっているが、実は占術もやれば場合によっては軍議にも加わる。かつて、中原で博覧強記《はくらんきょうき》の名をうたわれた異才であり、左道《さどう》を用いる妖人として忌まれた奇人でもあった。〈魁〉が滅んだ時に、羅旋について〈琅〉に来て以来、この土地にすっかりなじんでいる。何故か、藺如白と話があうらしく、 「まあまあ、五叟先生。ほんの冗談ではないか。羅旋も、口がすぎるぞ。それで、おもしろい事象とは何事かな」  なだめられると、すぐに機嫌をなおして、 「さすがは〈琅〉伯、人間ができておいでじゃ。どこかの無礼者とは大違い——とにかく、ご自身の目でごらんになられた方がよろしいでしょう。どうぞ、外へ出て天をごらんあれ」  ひやりとした外気が、人々を包んだ。  外には、夜の帳幕《とばり》が深く降りていた。羅旋がこの部屋にはいったのは宵の口、今は深夜、乙夜(十一時半ごろ)を過ぎているだろう。満天の星空は、〈琅〉ではめずらしいものではない。よく晴れた秋の夜なら、星明かりで物が見えるぐらいだ。だが、この夜の天は、いつもにもまして明るかった。 「ほれ、あそこじゃ」  小柄な老人が伸び上がるように差した先の天には、なにも異変は見えなかった。 「なにを見ろという気じゃ。いい加減なことをいうと、承知せぬぞ」  羊角が冗談まじりに威嚇したが、五叟老人は涼しい顔つきで、 「そうか、御身方の眼にはまだ見えぬのを忘れておったわい。あのあたり——」  と、北天の一点を指で示して、 「——孛星《はいせい》が現れる」  孛星——帚星《たいせい》とも彗星《すいせい》ともよばれる、天の異端児である。 「いつのことだ」  思い思いに院子《にわ》におりたった一同は、示されたあたりを見上げて目をこらしたが、老人のいうような異様な星は影すら見えない。だが、五叟老人がわざわざ虚言《うそ》を告げにくるような人物ではないことは、この場の全員が知っていた。いつも飄飄《ひょうひょう》とふざけているようで、肝心なことはけっしておろそかにしないのは、羅旋に似ているかもしれない。 「——それで、五叟先生。その星の出現は、なにを意味するのだ」  如白が、ていねいな口調でたずねたのに対して、 「凶星じゃ」  あっさりと、五叟はいいきった。 「おそらく、な。どのような現れ方をするのか、儂にもまだ、明確にはわからぬのじゃ。孛星の尾の長さにもよる。ただ、北天というのが気にかかる。北の天には、紫微垣《しびえん》がある」  古来、中原には不動の極星を天子と見做《みな》し、その周辺の星々を宮廷を司《つかさど》る重臣たちに見立てる習慣がある。それを指して、五叟老人は、 「紫微垣に星の尾がかかれば、それは国が乱れる印。最悪、極星に星の影が指せば、王が斃《たお》れるという」 「しかし、五叟。それは〈魁〉が在った時代の占法であろうが。国が乱れるもなにも、とっくの昔に四分五裂しておるわい。王と自称する者など、掃いて捨てるほどおる時に、その予言はあるまいが」  羊角が、とまどい気味に反論すると、 「されば、じゃ」  にやりと老人が笑うと、不ぞろいな歯がちらりと見えた。思いのほか皓《しろ》い歯をさらに研ぎだすようにして、 「斃れた者が、真の王ということになる」  これには一同、あっと虚を衝かれた形となった。 「これは——とんでもない矛盾じゃな」 「なに、羊将軍。わが主公《との》は、王位を主張されたことは一度もありません。心配は要らぬかと」 「いや、自称や形式など、関係ない。問われておるのは、真の王たる資格と資質の問題であろうが」 「しかし」 「では、主公には、王たる資格がないと申すか、方子蘇」  羊角と方子蘇が口角泡を飛ばしかけるのを、如白が静かに手を上げて制した。 「詳しいことが確定せぬ間は、余計な推測はせぬことだ」 「主公のおおせの通りじゃ。おぬしたちの思いが天に通じれば、天象もそれに感じて変化するかもしれぬ。なに、昔の栄華の夢ばかりをむさぼっているような手合いに、天が味方するようになれば、この世は終わりじゃ。逆に生きる価値があると天が思えば、自然、道もひらけるもの。ほれ、羅旋、そういう奴をひとり、昔知っていたであろうが」 「…………」  その名を、羅旋は口にしなかった。ただ、天の一点を凝視して、 「あれが、始まりだったな」  つぶやいたのみだった。 「これからが、始まりだ」  羅旋の心中を知ってか知らずか、如白が告げた。 「〈琅〉という国は、これから——この夜から始まるのだ。戦の支度だ。この戦、是非にも勝たねばならぬ。負けた方が、この地上から消えるのだ」  星は、〈衛〉の国都からもはっきりと見えた。  館の一隅の観楼子《かんろうし》に立って、 「戦がはじまるか」  耿無影は低くつぶやいた。  五叟老人ほどの眼と予測の術を持たない彼だが、それでも、人より優れた学識の結果、見えない星の位置を推測する程度のことはできた。ただ、その全容を読みとることまでは、不可能だった。  つぶやいて、かたわらに小さくうずくまる人影に、 「〈征〉の魚支吾の健康は、最近どうだ」  もの憂そうに訊いた。 「今のところ、持ちなおしておりますそうでございます。まったく、残念なことで。ひとことご命令をいただけますなら、すぐにでも縮めてさしあげまするものを」 「冉神通《ぜんしんつう》」  身を刺す秋風よりも冷たい声が、うずくまる影をさえぎった。 「魚支吾の暗殺をふたたび勧める気なら、ここからつき落とすぞ」 「滅相《めっそう》もない。以前、陛下よりお叱りをうけて以来、そのような卑怯なこと——」 「卑怯だから止めたのではない」 「では、何ゆえ?」 「おのれで考えよ」  つき離して、無影はふたたび北天を仰ぐ。  刺客を使うか毒を用いるか、それとも呪殺か、どの手段を採るにしても、どれほど用心しても証拠は残るものだ。万が一の可能性にすぎないが、それでも〈衛〉が手を伸ばして一国の王を殺したと知れれば、〈衛〉は怨嗟《えんさ》の対象になる。その恨みが恐い。そして、〈征〉の君臣の心がまとまるのがおそろしいのだ。〈征〉王、魚支吾は確実に病《やまい》に蝕《むしば》まれている。彼の病状も〈征〉の内情も、細作の報告で手にとるようにわかっている。  先年、太子としてたてられた公子は、いまだ幼く、魚支吾が病死した後、あの国を王として統合し得る後継者はおらず、臣下をまとめ凡君をもりたてていけるだけの実力者もいない。うまく自然死してくれた方が、〈征〉が内部崩壊してくれる確率は高いのだ。まして、無影は魚支吾よりもはるかに若い。相手が死ぬまで待つぐらいは、辛抱のうちにはいらない。問題は——。 (この国を支えてくれる者も、いないこと)  かたわらにひかえる冉神通が、方力は強大でも大事をともに謀れる人物ではないことは、百も承知だ。〈鄒〉国の守りを任せている百来将軍は、信頼はできても、無影の理想を真に理解し受け継ぐことはできない。そもそも、無影よりもはるかに年長。  無影の意志をうけた若者たちが、無影が設置した学舎からようやく政治の場へ出てきはじめているが、旧来の士大夫層を一気に一掃はできない。若者たちもまた、無影の期待に完全に沿っているとはいい難い状況である。 「〈奎〉と〈琅〉が、戦端を開くか」 「おそらくは」 「明日、〈鄒〉へ発つ。支度を命じておくように」 「〈鄒〉へ? それはまた、何故」  一見、脈絡のない無影のことばに、冉神通はおうむ返しにたずねてしまい、主人の冷ややかな視線に逢って、あわてて平伏した。方術の技量ならば、五叟老人でさえ一歩も二歩も譲る。頭脳の回転もそれなりに鋭く、主の顔色も機敏に読む。だが、無影は彼に時おり祐筆《ゆうひつ》(書記)のような役目を命じるだけで、職も位も与えようとはしない。  無影に理由をたずねる者がもしもあれば、 「あれは、小才子だ」  きっと、そう答えただろう。頭こそよいが、国家の大計を語る相手としては不足だという意味だが、冉神通のためにそれを訊いてやる者などあろうはずがなく、本人もまた、正面きって尋ねるだけの度胸などなかった。  うずくまったまま、冉神通は続いて話しかけられるのを待っていた。だが、次のことばはついに無影の口からは出なかった。 (この星々を——あれ[#「あれ」に傍点]も見ているだろうか)  さえざえとした満天の星々へ、そしてまだ隠れている凶星へと、人々の思いが陽炎《かげろう》のようにたちのぼっていく。  長い、戦の季節がはじまろうとしていた。 [#改ページ]  第二章————————緒戦      (一) 「——ほう」  最初に放った物見から、〈琅《ろう》〉の陣容を聞きとった大牙《たいが》は、意外そうな顔つきを見せた。 「えらくあたりまえの陣立てだな。もっと小細工をしてくるかと思ったが」  会戦の場所と指定した、長塁のある付近からすこし下がった地点の軍営、その中でももっとも大きな天幕の中である。  彼がそう思ったのも無理はない。〈琅〉のくりだしてきた三万五千の軍のほとんどは、戦車とそれにつく歩卒で構成されていたからだった。ちなみに、一乗の戦車に乗るのは三人。手綱をとる御者と、戈《か》を持つ者、弓を持つ者がひとりずつ。これが甲士《こうし》といって、士大夫《したいふ》の位にある者である。のこりの歩卒《ほそつ》は徴用した庶民で、一乗の戦車について従う歩卒は七十二人というのが慣例である。他に二十五人の輜重兵《しちょうへい》がつくから、一乗あたりにつく兵は百人ということになる。  三万強というのは、戦車の数から逆算した数だった。それを、大牙は何度もたしかめた。 「あの漢《おとこ》は、一度、竈《かまど》の数で兵力をごまかして見せようと謀《はか》ったことがある。用心にこしたことはない」  騎馬兵も千頭あまりと聞いて、そんなものだろうとうなずいた。 「〈琅〉には六万の軍を出す力があると見ていたが、まあ、そんなものだろう。あまり国内をがらあきにすると、ちょっかいを出したがる奴がいるだろうからな」  いいながら、右へ視線を動かした。それがわざとであることを、大牙の左手の末席にひかえていた淑夜《しゅくや》は察していた。出陣に際して、淑夜は大牙の直属の軍の一部に組み入れられている。主に、淑夜の麾下《きか》の騎馬兵は、伝令としての役目を命じられる予定だった。統括するのは冀小狛《きしょうはく》将軍だが、兵は各国から少しずつ集められている。これも、特定の国が王に接近しないための用心であるという。 「——莫迦莫迦《ばかばか》しいにもほどがあるのだがな」  と、すっかりうんざりした調子で、大牙が冀小狛に語ったという。身辺に詰めるようになっても、淑夜はまだ、大牙と直接口をきいていない。意識的に避けて、用件はすべて冀小狛を通じて伝えている。大牙からも、冀小狛を介して必要最小限のことが伝えられてくるだけだ。その連絡のついでに、冀小狛がついこぼしたのだった。 「王といったところで、即位の式をあげたわけでもない。正式の儀式となると宗廟《そうびょう》に参る必要があるが、〈奎《けい》〉のにしろ〈魁《かい》〉のにしろ、今は足ぶみならぬ場所。かろうじて、玉璽《ぎょくじ》を保持しておられるだけで、それも恣意《しい》には任せぬありさま。実権もなく、接近したところで利権もない。それなのに、形式だ体面だと、無益なことばかり増えていく」 「——利権は、これから生じることになるのでしょうから」 「そうなった時が、おそろしいのだ」  冀小狛の心配と淑夜の不安とは、方向こそ同じだが、深度がちがう。  今は実体のない大牙の権力が、目に見える力になった時、それに群がってくるのは旧来の制度の範囲で利権を得ていた者たちにちがいない。冀小狛は、そうなった時に、苦楽をともにしてきた〈奎〉以来の臣が排除されるのではないかと案じている。  だが淑夜は、旧来の権力者が権力を得るのでは、あらたに国を興《おこ》す意味がないと思っているのだ。 〈魁〉が滅んだのは、他にも要因はあっただろうが、その制度が長い年月の間に疲弊《ひへい》しうまく機能しなくなったためでもある。その二の舞をすることはないと進言し、大牙もそれを一応は理解している。だがこんな状態では、大牙の側から改革を提案したところで、国主たち——ことに、主だった〈貂《ちょう》〉や〈乾《けん》〉、〈容《よう》〉といった国に拒否されるのがおちだろう。  また、王という位が虚名ではなく実体となった時、それに群がる者の間で必ず争いが起きる。今でこそ、冀小狛ら、旧〈奎〉からのわずかな臣もこうして、幕僚の中に加えられているが、一方でなにかと遠慮をさせられている。淑夜が末席に押しやられているのも、その一端である。本来なら——と、大牙が嘆いていたことをも、冀小狛から伝えられて、 「きっと、国主方とやりあうのが面倒なので、そんなことをおっしゃるんですよ」  と、淑夜は苦笑したが、それだけが理由でないことは承知していた。  今も目の前で、 「——三万五千とは、また、われらをみくびってくれたものだ」 〈貂〉伯、夏子由《かしゆ》が嘲笑《あざわら》った。 「こちらは、不参が多少出たものの、六万はいる。いくら、〈琅〉の者らが戎族《じゅうぞく》の血をひいて強悍《きょうかん》だとはいえ、倍に近い数を相手にして、勝てると思っているとは笑止でしかない」 〈崇《そう》〉の国主が、遅参《ちさん》の使者を今ごろになって送ってきたのだ。参集しないとはいっておらず、またもっとも遠距離から来る関係上、表だってのとがめだてもできず、結局、不問に付すこととなった。そういう〈貂〉伯だとて、本来の数を千ほど削っての参戦である。 「背後の守りも固めておかねばならぬだろう。〈征《せい》〉がどう出るか、〈衛《えい》〉が裏切らぬか、まったく予測がつかぬのだから」  といわれれば、同様に予定よりわずかずつ減らしてきた国主たちも、一様に同意するしかない。手持ちの兵をすべて投入したのは、守るべき土地を持たない大牙と、国境を長く接している〈乾〉伯だけというありさまでは、だれも非難する資格がない。  淑夜ひとりが、そろいもそろっての節約ぶりを疑ってかかっていた。いや、大牙ももしかしたら気づいていたのかもしれないが、冀小狛を通じての話では、確認のしようがない。ともかく、この件の裏で羅旋《らせん》が糸をひいているにちがいないと確信していた淑夜だった。淑夜もまた、羅旋の立場ならば、うてるだけの手をうつだろうし、こんな形で後方攪乱《こうほうかくらん》を狙うぐらいのことはする。  たいした手間はかからないのだ。細作かそれともふつうの商人を使うか、どちらにしてもちょっとした噂を流すだけで、国主たちを疑心暗鬼に陥らせることはそうむずかしいことではない。  大牙は〈琅〉の出方をあたりまえと評したが、けっして「小細工」の類がないわけではない。  それに、〈琅〉の総勢がこちらよりも少ないからといって、とてもではないが、夏子由のようにあなどってかかる気にはなれない。多勢に無勢というが、その無勢で、倍する軍を見事に追い返してくれたのが、赫羅旋《かくらせん》という漢だったではないか。〈貂〉伯あたりが、〈琅〉を過小評価したがるのは、仕方がないと、淑夜も思う。だが、羅旋の起こした奇跡を目の当たりにしている大牙が、それに同調してしまっては困るのだ。  だが、淑夜の心配をよそに、翌日と決まった戦の布陣は、国主たちの思惑で定まっていった。  耕作にむかない草原地帯というが、ただ平らな土地が広がっているわけではない。なだらかではあっても、車で登るには無理のある起伏もある。車も人も馬もその起伏を避け、歩きやすい間の低地をぬって通行する。通行量に多寡《たか》はあるが、自然、道ができるのは中原も辺境も同様である。  中原は、〈魁〉が国を統一した時に、道路を整備した。一部は石畳をしきつめて、車が通りやすいようにさえしたが、このあたりとなるとあるかなきかのおぼろげな獣道である。だが、そんな道でも、何本も集まりまた散っていく四通八達《しつうはったつ》の地がある。  大牙が戦場と定めたのも、そんな衢地《くち》のひとつで、近くの小邑《しょうゆう》の住人が莱陽《らいよう》の野と呼ぶ場所だった。もちろん、一部には長塁がかなりの距離で築いてある。 〈琅〉の軍勢がとる道は、細作の報告からほぼ予測がついている。その正面に、長塁がたちふさがるかたちとなる。長塁のうしろに主力を配置し、余力を二つか三つに分散させて、起伏のうしろに伏せておく。  これが〈奎〉の基本的な布陣だった。 〈琅〉の切り札は、騎馬隊である。二年前の戦では、彼らの速度に攪乱された。前回は馬の数も訓練も足りなかったために、脅しとしてしか機能しなかったが、今回は数もあり、本格的に攻めてくるだろう。とはいえ、主力はまだ戦車にかわりない。三千騎で六万の軍勢を全滅させるのは無理だ。ということは、まず騎馬兵でこちらの本隊に攻めかかり、彼らが一撃離脱したあと、主力の戦車がむかってくる——。  大牙と冀小狛が読んだ〈琅〉の戦法は、そうだった。 「だとしたら、最初の馬での一撃をしのいでしまえば、勝機はこちらにめぐってくる」  長塁の間を一度にすりぬけられる馬の数は、そう多くない。長塁の上を乗り越えようとする馬は、弩《いしゆみ》や弓のかっこうの標的になる。長塁のうしろに弓手隊を厚く配置し、戦車同士をなるべく緊密に配置し、間を馬が通りぬけられないようにする。  騎馬兵をやりすごしたところで、一気に長塁から討って出れば、この兵力の差だ、まさか完敗するようなことはあるまい——。  大牙は、当然、手勢をひきいて主力の中心となる。〈乾〉と〈容〉、その他の国々が長塁軍。〈貂〉軍が三手に分散して伏兵となるのは、彼らを動かすための伝令を、淑夜の率いる騎馬兵がつとめるからだ。〈貂〉の国内で騎馬兵の養成をおこなっていた関係上、〈貂〉の将たちは、淑夜やその配下の顔をある程度知っている。使者の真偽を瞬時に確認できれば、それだけ行動も早くなり高い士気も維持できるというものだ。  準備万端を整えて、淑夜も大牙も〈琅〉に対して指定した戦の日の朝を迎えた——迎えるはずだった。  早くに〈奎〉の陣営内の自分の天幕にひきとったものの、淑夜は一睡もできないまま夜をやり過ごそうとしていた。この前、戦に出てから二年の歳月が経っている。もともと、武人ではない淑夜にとって久々の戦の前夜は、火と油と血の匂いを思い出させ、とてもではないが眠る気になれなかったのだ。そのおかげで、彼は天幕の中に流れこんでくる湿った空気の流れと天候の変化に気がついた。 「——霧《きり》」  いや、これがただの天候の気紛れだろうか。 「将軍、冀将軍!」  身体のそばから離さない杖を片手に、片足をひきずりながら出た天幕の外は、まだ暗く、明けてはいなかった。だが、足もとからは白々とした霧が音もなく波のように押しよせてきている。 「どうした、淑夜」  近くの天幕から現れた初老の将軍が、上から下まで武装を整えていたのはさすがであるが、その姿を見て、視界が随分悪くなっているのがさらによくわかった。 「敵襲でもないのにさわぎたてると、他の国主方の機嫌が——」  いいさして、彼もまた視野の異常に気がついた。 「これは。どうしたことだ。こんな乾燥した草原で、秋に霧がたつわけが」 「将軍、火を」  説明をしている余裕はなかった。天は見えないが、払暁《ふつぎょう》はすぐそこに迫っているはずだ。夜が明けた時の陣営の混乱は、未然にふせがなければならない。 「火を焚《た》いてください。燎火《かがりび》ではなく、もっと大きく、天を焦がすぐらいの火柱をあげてください」 「しかし、そんなことをしたら夜襲のかっこうの標的となる」 「暗いうちは、明るい場所へ夜襲などかけてきませんよ。ああ、でも兵士はみな起こしてください」 「どこへ行く、淑夜」  淑夜は、騅《あしげ》の馬の鞍の上に身体をひきずりあげているところだった。淑夜の配下の若者たちが、外の騒ぎに飛び出してきて、淑夜のもとにわらわらと集まってきていた。 「淑夜さん、命令は?」  若者の中でも主だった顔役らしいのが、凛《りん》と張った声で訊いた。 「手分けして、各陣営に伝令を。大きな燎火を焚いて、早急に霧を払うように。それから、早々に戦の準備を。明るくなると同時に、攻撃がはじまる」 「わかりました」  諾《だく》といった口の下から、若者たちはぱっと散った。それがひどく統制がとれているのに、冀小狛は感心した。が、彼はまだ、事の全貌がのみこめないでいる。走りだそうとする淑夜の馬の轡《くつわ》を、とっさに押さえて、 「待て、主公《との》の——陛下のご指示なしに、勝手な命令を出しては」 「かまわん。行け、淑夜」  背後から、はっきりとした声が闇を裂いて届いた。 「陛下!」 「急げ、淑夜」  その手からちいさなものが投げられ、淑夜の手の中にきれいに収まった。伝令の身分を示す、ちいさな旗の束だった。それを淑夜は、同様に馬に乗って寄せてきた若者のひとりに、そっくり渡した。若者は、器用に手綱を離し、馬の背から旗を両手で四方八方へ投げた。それを馬を走らせながら受け取り、若者たちが闇の中へと消えていく。  淑夜もまた、 「超光《ちょうこう》、行ってくれ」  馬に鞭《むち》を入れるまでもなく、あっという間に闇と霧に紛れた。あとに、馬蹄《ばてい》の響きがいくつか、こだまのように残った。それに混じった罵声は、眠りを妨げられた将兵のものか、燎火を大きくしようとした者らを阻止しようとした衛士《えじ》のものか。 「かまわぬ、指示どおりにさせよ」  背後に引きつれてきた衛士や目付役たちに、大牙はきびしい表情で命じた。反論も質問も許さない口調と気迫に、だれもが息を呑み、口を閉じた。ただ冀小狛ひとりが、 「——いったい」  自問のつぶやきの形をとって、説明を大牙に要求した。 「五里霧《ごりむ》だ。忘れたのか。五叟《ごそう》の得意技だったやつだ」 「——あ」 〈魁〉が滅ぶ前年、〈衛〉に攻められた〈奎〉は長泉《ちょうせん》の野で迎え討ち、逃げると見せて巨鹿関《ころくかん》まで誘いこんで、大勝利をあげた。その長泉の野の初戦で〈衛〉の出足をくじいたのは、五叟先生こと莫窮奇《ばくきゅうき》が左道《さどう》で呼びだした、時ならぬ霧だった。  濃霧で視界をきかなくしておいて、奇襲をかけた、その先頭に立ったのは、ほかならぬ大牙だったはずだ。  奇計であって、まっとうな戦ではない。しかも、大牙や淑夜を相手どるには手の内が知られすぎている方法だが、無駄を覚悟で仕掛けてみたといったところなのだろう。 [#挿絵(img/05_073.png)入る] 「安心しろ。長時間は保《も》たぬ。せいぜいこの本営の周囲だけのことだろう。だが、一刻も早く払ってしまうに越したことはない。心配は要らぬ、火の熱で散じる。それよりも、全員を配置につけろ。特に弓兵を長塁に配置した上で、敵陣の方向に注意させろ。どんな音も、振動もききのがすな」  やつぎばやに大牙が命令を下していくのにつれて、四方から罵声がひいていく。大声は発されるが、それが意味のある命令となって伝わっていくのがわかった。 「——さすがでございますな」  大牙のかたわらに立ち、同様に命令を捌《さば》いていた冀小狛は、感嘆の声をあげずにはいられなかった。巨大になった燎火に照らされた大牙の顔が、武将の容貌になっているのを認めたのである。 「淑夜は、羅旋の手の内を知っている。奴にもっと権限を持たせてやれれば、こんなにあわてずにすんだんだが」 「儂《わし》が申しているのは、陛下のことで」 「なに? ああ——」  大牙は口髭を軽く撫でて苦笑した。 「どうやら、俺は王になんぞまつりあげられているより、戦場に立っている方がよほど性に合っているらしい。ああ、わかっている。朕《ちん》といえというのだろう。だがな」  ことばの後半は、肩越しに振り向いての怒鳴り声である。 「戦場で、礼や形式なんぞいちいち守っていられるか。戦は命令がきちんと通りさえすれば、それでいいのだ。俺は好きなようにやる。いやなら、帰って、おまえたちの主に好きなように復命しろ」 「陛下、なにもそのように。我らは陛下に逆らう気は毛頭《もうとう》——」 「ならば、ぼやぼやするな。甲《かぶと》はどうした。剣はどこへ置き忘れた。戦はもう、始まっているのだぞ。ぼんやりしていて、味方に踏み殺されても責任は持たぬからな」  突然、東天を紅く染めた光を見て、羅旋は小さく舌打ちをした。 「やっぱり、無駄だったか」 「儂のいうたとおりであろうが。まったく、無駄働きをさせおってからに」  |※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》の馬の、鞍のうしろにしがみついた老人が、ひとしきり毒づいた。羅旋は苦笑を見せながら、 「降りろ」  短く、老人に命令した。 「徐夫余《じょふよ》」  つづけて、斜め右うしろに馬をたてた漢の名を呼んだ。 「はい」 「これから、急襲をかける」 「羅旋。いまだ、戦の刻限はきておらぬぞ。だいいち、夜も明けきっておらぬのに」 「俺は、約定を守ると約束したおぼえはないぞ。だいたい、戦とは機をみてやるもの。わざわざ、だまって向こうから仕掛けてくるのを待っている莫迦がいるか。俺が戦の仕方を変えてやるさ。他のものもな。小参《しょうしん》——」 「はい。なんでしょう、頭領《とうりょう》」  左うしろの栗毛の乗り手は、まだ少年である。声をかけられて、うれしそうに顔をほころばせた。一見して戎族の血を引くとわかる少年である。だが、 「本陣の主公に伝えてくれ。俺はこれから動く。あとは、策どおりに頼む、と」 「——はい」  いざ戦闘が始まるという時に、後方へ遣《や》られるのは、少年にはよほど不本意だったのだろう。声に不満がこもっていたが、逆らうようなふりはさすがに見せなかった。 「こら、儂はどうする。こんななにもないところに、放りだしていく気か」 「そうだった。小参、先生を一緒に連れて帰ってくれ」  いわれる前に、老人は少年の鞍のうしろに手をかけている。 「やれやれ、もの忘れの激しい奴じゃ。ほれ、小参、手を貸してくれぬか」  ふたりを乗せた栗毛がまっすぐ西をさして下っていくのを確認してから、 「いくぞ」  さして大きな声ではなかった。だが、夜明け前の草原の、乾燥して張りつめた冷気の中でその声は、星まで届くかと思われた。  徐夫余が旗を一本、高々と掲げると、それに呼応するように数本の旗が、おりから吹いてきた一陣の風になびいた。 「夜が明ける」  闇を吹きはらう、早朝の風である。まだ視界は深く閉ざされているが、羅旋はかまわず|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》をうながした。彼の両眼が緑色に光りながら、周囲を一瞥《いちべつ》するのを徐夫余は見た。羅旋の目は、獣と同様に夜でも昼とおなじように見える。それが、夜光眼と呼ばれる特殊なものであることは、徐夫余も知っていた。それが、どうやら戎族には忌避《きひ》されるものであるらしいことがわかってきたのは、ここ数年、〈琅〉で暮らすようになってのことだが、正確な理由は不明のままである。五叟老人がどうやら、かなりの事情を知っているらしいことはわかったが、夫余は敢《あ》えてたずねようとはしなかった。  ただ、現在、この闇の中での羅旋の視力は、あとに続く者にとって唯一頼れるものであることしか、彼は知らないし、それでいいと思った。  羅旋ほどではないが、夫余も他の者らも、かなり夜目がきく。きかない者も、馬の蹄《ひづめ》の音で方向を定められるよう訓練されている。  三千騎の集団が雪崩をうって草原を疾走する光景は、陽の下でなら勇壮なものだっただろう。だが、闇の中では不気味さの方がまさったし、東天が白みはじめた中を響きわたる馬蹄の音は、夜明け自体を異常なものであるかのように感じさせた。むろん、それを羅旋はすべて、計算にいれた上で夜襲まがいの戦をしかけたのである。  だが——。 「羅旋!」  徐夫余が声をあげたのは、長塁までの距離が約五百歩(一歩=一・三五メートル)ほどに詰まった頃だった。  その声は砂塵《さじん》と地響きとにかき消されてしまったが、羅旋は羅旋で、指摘された現実に気づいたのだった。 「——弩」  白さを増した空気の中で、長塁の上が一瞬、きらりと光った。ふつうの弓ではない。発条《ばね》仕掛けで弦をひきしぼり、引き金で発射する機械仕掛けの弓である。これなら、どんな非力な人間でも十人力の弓をひける。欠点は、弓にくらべて次の矢をつがえるのに時間がかかるという点だろうか。だが、本来戦車の後についていく歩兵を振り替えれば、解決できない問題でもない。  長塁のむこう側には、さまざまな旗がひらめいているのが、遠目からも見えていた。その中で、真正面に挑戦するように林立するのは、〈奎〉の一文字をぬいとった旗。その陣の中央にいる人物の顔を、羅旋は見るまでもなく思いうかべることができた。 「畜生、見透かされていたか」  歯ぎしりしながらつぶやいたが、その表情には声ほどの後悔の色はない。 「頭領、どう——」  懸命に馬をならべて、徐夫余が声をはりあげた。このまま突っ込めば、はりねずみとまではいかなくとも、狙い撃ちにあって大きな被害が出るにちがいない。だが、 「止まるな!」  尋ねられる前に、羅旋は背中ごしにふりむいて、怒鳴っていた。 「そのまま、正面を突破する。遅れた奴は、見捨てて行く」  ここで逡巡《しゅんじゅん》して速度を落としたり、引き返したりすれば、かえって格好の標的になるのだ。身体を低くして駆け抜け、いっそ敵陣の中まで突っ切ってしまえたら、その方がかえって安全だ。相手の陣営が完全には迎撃態勢が整っていないなら、なおのこと。  羅旋はそれだけを怒鳴ると、馬の速度をあげた。  脚の速い馬上での会話である。  数語を発するだけの間に、百歩ほどはあっという間に詰まる。ひょうと音をたてて、最初の矢が飛来した。それが羅旋の目の前に落ちる。落ちた場所を、直後に|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》が踏んで駆けぬける。その後を、十騎、二十騎と通りすぎるころには、羅旋は文字通り、矢の雨につつまれていた。  ただ、速度が速すぎるために狙いが定まらず、一本もかすらない。羅旋も、徐夫余以下の配下たちも、軽い革製の胴甲をつけているのみで、的中すれば怪我は免れない。だが、それを恐れて速度を落とす者は、ひとりもいなかった。脱落すれば、あとに待つのは負傷ではなく死だということがわかっているからだった。  不意に——。  矢の雨が、熄《や》んだ。  長塁の上で弩隊の指揮を執っていた長身の漢が、なにごとか叫び身振りで制止したのだ。羅旋が長塁まで、あと五十歩ほどの距離だった。  長塁は連続したものではなく、適当な距離を置いて通路が開かれている。戦車が二、三台ほど通れそうなその間隙から、砂塵が舞い上がったのである。  ようやく昇りはじめた太陽の、ぼんやりとした最初の光がその砂塵を通して紅く見えた。そして、その光を背景に、戦車の黒い影が次々とうかびあがってきたのである。  戦車が掲げた旗は、〈奎〉。 (まさか)  と、さすがの羅旋も思った。口に出す暇はなかったが、その動揺はかたわらの徐夫余にも伝わった。そういえば、徐夫余は本来、〈奎〉の生まれだったなと、頭の隅をよこぎった時には、木と金属の騒音が耳に届いたのだった。  まさか、総帥《そうすい》たる段大牙が直接、出撃してくるとは誰も思っていなかったにちがいない。実はそれは、〈奎〉の側でも同様だった。 「——陛下、なりませぬぞ!」  長塁のこちら側で弩隊の指揮を執っていた冀小狛が、喉もはりさけんばかりに叫んだが、大牙は聞く耳を最初から持っていなかった。 「淑夜、止めろ、お止めしろ!」  命令されるまでもない。淑夜と、その手勢の半数は、大牙の戦車からは少し離れた場所に集結していた。ちなみに、のこりの半数は各国の陣営に、伝令兼防備を固めるために派遣されて、まだ戻ってきていない。  無理もない。払暁後と宣言されていた戦が、突然、二刻(四時間)近くも前に始まったのだ。羅旋たち、〈琅〉の騎馬部隊が突入してくると知れた時に、なんとか兵に装備がわたり戦車に馬がつながれ、態勢が整っていたのは〈奎〉と、〈乾〉軍の一部だけだったのだ。  大牙の突出も、それを頭に入れての決断だった。  ここで万が一、羅旋を討ち取ることができれば、この戦は勝ったも同然。また、この戦で決着がつかず、再戦を余儀なくされるとしても、羅旋の不在は〈琅〉にとって決定的な打撃になる——。さらに〈奎〉の軍勢だけで功績をあげれば、封地を持たない〈奎〉の今後の発言力も大きく変わってくる。  そこまでの計算が、とっさに冷静にできたわけではない。大牙の直感のようなもので、そうとなると危険もおのれの立場も、彼の念頭にはなかったのだ。そして、大牙が動けば、当然のように〈奎〉の旗を掲げる者は全員、そのあとに続いた。  驚いたのは、淑夜も冀小狛と同様だったが、大牙の動機は淑夜の方が早く理解した。  淑夜は、声を出して命令はしなかった。彼の声量では、戦場の喧騒《けんそう》の中を命令を通すことは難しい。だから、旗を使って命令を出すことを思いついた。 〈奎〉の文字が描かれているのは、他と一緒だが、淑夜がかたわらの馬の騎手に持たせているのは、真紅の旗である。その振りようによって手勢が意のままに動くよう、淑夜は教えこんでいた。  だから、出撃の合図を送ったあと、前方の砂塵《さじん》の中を見てふたたび、おどろいた。  朝の風と砂塵の中を、〈琅〉の旗が何本もひるがえりながら押し寄せてきていたのが、突然、中の一本が高く放りあげられたのだ。ようやく明けそめた天にむかって、その旗はくるくると何度も回転しながら——舞い上がり、頂点で勢いを失って、まっすぐに落下してくる。その旗が落ちてきた時、その下の騎馬の流れが、さっと逆流したのである。  いや、逆流——というのは正確ではない。正しくは、一団となっていた騎馬の群れが、突然、方向を翻し、四方八方、それぞれ好きな方角をめざして散開してしまったのだ。  矢の雨の脅威さえなくなってしまえば、背をむけようが速度を落とそうが、大きな被害はでない。一瞬の機を見て、彼らは不利をさとって転進しようとしたのだった。そして、それを一本の旗の動きで全軍に命令してのけたのだ。  自分とおなじ工夫を、羅旋の軍が見せたことに、淑夜は一瞬の衝撃と苦笑を隠せなかった。自嘲《じちょう》の笑いだった。彼が工夫できたことを、あの羅旋が考えつかないはずがない。この二年、工夫の点では羅旋を凌《しの》いだかもしれないという思いあがりを、瞬時に淑夜は叩きつぶされた感覚をおぼえた。ただ、それが怒りや屈辱といった感情に、直結しないのが淑夜の長所でもあり短所でもあった。  すぐに気をとりなおすと、超光の腹を軽く蹴ってうながす。騎り手の躊躇を感じとって、やはりためらっていた超光は、得たりと全力をあげる。 「——大牙さま!」  先を走る〈奎〉の旗にむかって叫ぶと同時に、鞍上で淑夜は弓を手にした。左手を鞍に置いて身体を安定させながら、やはり鞍に差しておいた矢をひきぬき、つがえざま左をふりむき、ひょうと放った。大牙が引くような剛弓ではないのが口惜しいが、それでも〈奎〉王の戦車と知って反転してくる数騎の脚を止め、進路を逸らす効果はあった。  騎射は、走る馬上で身体を安定させなければ不可能である。それを、さほど大柄でもない淑夜がやってのけたのに驚いたか、〈琅〉の兵が目を見張ったのが、すれちがった瞬間に目にはいったが、今の淑夜にはそれを確認する余裕はない。  淑夜のあとに続く者らも、皆、援護の騎射をはじめながら、戦車群にけんめいに追いすがった。  予想もしていなかった事態に不意を衝かれたせいか、それとも長塁の東側から、おくればせながら〈乾〉や〈崇〉、〈容〉といった旗が動きはじめたのを見たためか、〈琅〉の騎馬兵は応戦しながらも四方へ散じていく。逃げまどうということばが近いような、混乱ぶりだった。 「大牙さま!」  ようやく大牙の戦車に追いつき、並び、淑夜は叫んだ。 「退いてください。これ以上、突出しても危険なだけです!」 「まだだ!」  大牙は左手に弓を、右手で車の轅《ながえ》をつかんだ姿勢で怒鳴りかえしてきた。 「見ろ」  弓の先で示した前方には、あらたな砂塵が巻き上がっている。 「〈琅〉の本隊だ。馬にひっかきまわされただけで、おいそれと退けるか」 「だめです」  淑夜も、きっぱりと拒絶した。 「策もなく正面からぶつかっても、被害が大きくなるだけです。ただ勝てばいいというものではないでしょう。長塁の内へ、いったん戻ってください」  淑夜も、右手で鞍をつかみ左手の弓の先で、斜め後方を指した。 〈奎〉の旗はまっすぐ従って来るものの、他の旗はそれぞれ、逃げ散る馬の群れを追って、距離も方向もばらばらになりつつある。逃げついでに、巧妙に分断を計られかけているのだと、淑夜は主張した。 「いったん、鉦《かね》を。〈琅〉の本隊は、長塁で迎え撃つべきです」 「——わかった」  馬の上から手を伸ばして、戦車をとめかねない淑夜の勢いに、大牙もようやくうなずいた。もともと、無謀を覚悟の突出である。奇襲には奇襲で応酬し、打撃を与えようと計ったことだが、どうやら双方ともに機を失ったのを理解するのに、時間は必要なかった。  やがて、草原に退却の合図の金声《きんせい》が響きわたった。 〈乾〉軍が最初に反応し、他の国の軍もそれにしぶしぶしたがった。功績を立てるどころか、戈を交えることすらできなかったのだから、不満はくすぶっていただろうが、王の命に逆らって一国だけで戦をする力はなかったのだ。 〈奎〉側の金声が聞こえると、〈琅〉側の砂塵も低くなった。相手もまた退却していくのは、物見の報告を待つまでもなくわかった。  こうして長塁の戦の緒戦は、朝の陽が、まだ天のなかばまでも昇りきらないうちに、終結したのである。      (二) 「まったく、肝を冷やさせる。これで二度目だ。あいつ、いつの間に」 〈琅〉の本陣に帰りつくや、羅旋は馬を降りるのももどかしげに、誰にともなく話しかけはじめた。めったに顔色を変えるような漢ではないから、表情は平静だが、多くなった口数が彼の興奮の度合いを示していた。 「頭領、淑夜さまを見ました——」  やはり馬からすべり降りて、徐夫余がいっさんに駆けてくる。その長身にむかって、 「わかっている!」  怒鳴ってから、顔をゆがめて笑い顔を作ってみせた。 「如白《じょはく》どのに合わせる顔がない。俺の油断だ。まさか、たった二年で中原の奴らが、あれだけの馬をそろえて、騎射までこなせるようになるとは、思ってもいなかった。それにしても、どんな左道を使って——」 「これを見てください、頭領」  徐夫余もいつになくせきこんで、羅旋をうながした。彼が見せたのは、戦——というよりは小競《こぜ》り合《あ》いの混乱の中で主を失ったらしい馬である。  まだ三歳か四歳の若い馬で、鞍の形からして〈奎〉軍のものである。戦らしい戦闘はなかったとはいえ、矢の応酬も、剣を抜いてのやりとりもまったくなかったわけではない。最初はそれで落命した兵の馬かと思ったが、鞍にも馬の身体にも血らしいものがないところを見ると、どうやら慣れない騎り手が落馬でもしたらしい。 「鐙《あぶみ》を見てください」  徐夫余が示したのは、鞍から下がっている鉄の輪である。  馬に不慣れな者は、馬の背によじ登るだけでもひと苦労する。羅旋や、戎族の生まれの者、また〈琅〉の人間の大方は、幼い時から慣れていてなんでもないことでも、中原の人間にとっては大事である。踏み台があればなんでもないことだが、遠出をしたり戦に出るのにいちいち、そんな台を持ち歩けない。そこで工夫されたのが、この輪だった。  馬の背に登るためのものだからと、鐙と呼ぶようになった。この輪に片足をかけ、身体をひきあげる。考えついてみれば簡単きわまりない物で、しかも楽ができるわけだから、今では〈琅〉の人間も鞍にとりつけつつある代物だった。  現に、馬に関しては戎族も顔負けするほど上達した徐夫余ですら、鞍の左側にはこの輪を吊している。ただし、馬に乗るための道具であるから、左側だけにあれば十分だと羅旋は軽く考えていた。羅旋にはあってもなくても関係のない代物だからでもあった。  今、徐夫余が勢いこんで示した鞍は、両側に輪がついている。しかも、それが円ではなく、上からひしゃげさせたようないびつな形なのである。上辺を丸く、底辺を水平にした形は奇妙に見えたが、爪先の形にはぴったりと合っていた。 「なるほどのう」  ひと目見るやうなり声をあげたのは、いつの間にか顔を突き出してきていた五叟老人だった。 「なるほど、ほんのひと工夫ふた工夫で、これほどちがうものか。これなら、馬の上で身体が安定する。脚をふんばることもできる。儂でも騎射ができそうじゃ。しかも、この鐙の形と大きさなら、落馬した時に爪先がすぐ抜けるな」  隣にいた徐夫余の馬の鐙と比較すると、なるほど、〈奎〉の鐙の方がひとまわり小ぶりである。 「これなら、足をとられて引きずられる恐れも少なくなる道理じゃ。——これは、淑夜の工夫かの。羅旋よ」 「俺が知るか」  羅旋が憮然となったのは、淑夜に馬の乗り方を教えたのは彼だったからだ。戦場で生き残る手段として、馬術と杖術を教えた。それが、弟子の方が努力と工夫という点で、師匠を飛び越えてしまったのだ。おもしろいわけがない。 「こうなると、あれだけの頭を段大牙にあっさりくれてやったのは、惜しかったの。例の玉璽と引き換えにしてでも、こちらへ連れてくるべきであったの」  と、五叟老人は人の悪そうな笑顔で、遠慮のない意見を吐く。 「いまさら、せこいことをいうな」  羅旋は軽くいなしたが、渋面は相変わらずである。 「それにしても、よい工夫じゃ。これは、わが方でも是非、採り入れるべきじゃと儂は思うが、どう思うな、壮棄才《そうきさい》」  屈託のない五叟老人は、うっそりと人垣の陰に立っていた人影に遠慮なく話しかけた。  騒ぎに集まってきていた羅旋の配下たちが、あわてて人垣を分けた。晴天の下でそこだけが曇っているような、顔色の悪い男がひとり、ゆっくりと進み出てきて羅旋にむかって一礼した。 「おう、棄才。どうした」  羅旋の謀士である壮棄才は、ふだんは羅旋の本拠である西辺の城市・茣原《ごげん》の守備についていて、めったに安邑《あんゆう》にも出てこない。本来ならば、今回も茣原にとどまっているはずだったが、代替の人間が如白のもとから派遣されたため、入れかわりに如白の幕下で、羅旋との連絡役をつとめていた。 「頭領、主公がお召しです」  低い、地を這うような声音で告げられると、悪い予感しかしない。どんな叱責が待っているのかと、徐夫余以下が顔を曇らせた。ひとり羅旋だけが、 「どうせ、敗れるふりをするつもりだったんだ。戦が戦にならなかっただけだが、これでむこうが満足するとは思えん。いずれ日をあらためて再戦して決着をつけようと、むこうからいってくる。その時に、もうすこしましな負け方を見せてやればいい」  羅旋の予想どおりだった。  如白は、羅旋の顔を見ると、 「戦にならなかったな」  苦笑して、すぐに後の対応についての相談に話題を移した。騎馬軍の奇襲が失敗に終わったために、戦車の本隊は敵に接触することなく終わったのだ。つまり、主力に被害はない。おそらく、敵も同様。あったとしてもごく軽微。とすれば、もう一度、むこうから戦を挑んでくるにちがいない。 「なにしろ、〈琅〉を力で屈服させなければ、〈奎〉王の体面は保てぬのだからな」  壮年の余裕を見せて、如白は笑った。  羅旋が、めずらしく自分から先行しすぎた失敗を詫びたが、 「それは、一時預かろう。ここで勝つのが、目的ではなかったのだ。多少、齟齬《そご》があったにせよ、とりかえしがつかぬという問題ではない」  羊角《ようかく》、方子蘇《ほうしそ》の二将軍も、おおむねそれに同意した。 「今日のは戦ではない。被害を最小におさえて、うまく敗れてみせろという方が難しいのじゃ」 「しかし——負けてみせるのはともかく、被害は塵ほども与えられなかった。このままでは、俺がよくても兵たちがおさまるまい。俺は別に手柄がほしいわけでもないし、廉亜武《れんあぶ》と交替した方がよくはないか」  彼らしくない遠慮は、戦という非常事態と、これからの長丁場での兵の士気を考慮してのことだった。  だが、羊角がまず、承知しなかった。 「すると、なにかの、羅旋。おぬし、今日ので懲《こ》りて、あとは儂らにおしつけて高みの見物を決めこむ気かの」  なかば冗談なかば目に真剣な色をうかべて、迫った。 「ひとりだけ、楽をしようと思うても、そうはうまくいかぬからな」  そうまでいわれては、羅旋も背をみせるわけにはいかない。結局、彼はこのまま、長塁の西側の〈琅〉の布陣の中にとどまり、戦の仕切り直しに備えることとなった。  やることはいくらでもある。  兵の点呼《てんこ》、武具類や戦車の点検、馬の世話と維持、そして翌日にも予想される戦の策。その日の暮れ方から、使者が両軍の間を何度も往復した。〈奎〉側は、東方の国境に〈征〉をかかえているだけに、悠長に構えてはいられない。〈琅〉も、策は策として、実際問題として辺地で長くとどまっているのは、あまり感心できた事態ではない。長期戦に〈奎〉をひきずりこむのは、当初からの狙いだが、それは〈琅〉国内にうまく誘いこめての話である。ここで時間を無駄にする余力は、〈琅〉にもない。  使者の口上は形式的なもので、たがいに自軍の状況を素直に話す者はいない。だが、話の端々を総合していけば、それとなく風向きはわかるものだ。それとは別に、羅旋は自分の情報網を使って〈奎〉軍のようすを探らせていたが、 「——耿淑夜が、後方へ回された?」  意外といえば意外な話がとびこんできた。 「責任を問われたらしいです」 「なんのだ」 「軍規を乱したということで——。独断で兵を動かし、戦端を開き、損害を出したということだそうですが」  徐夫余が、困惑の表情をかくしもせずに報告した。 「騎馬兵は」 「あれは、淑夜さまの配下だそうですから、やはり東へもどされるのじゃないでしょうか。伝令用に、少しは残されるでしょうが」 「俺がこういうのも妙な話だが——聞いた話では、五叟に仕掛けさせた五里霧に最初に気づいたのは、淑夜だと聞いているぞ。俺たちの奇襲を失敗させてくれた、最大の功労者は奴だろうが。失敗といえば、あんなところで長塁からのこのこ出てきた段大牙の間抜けの方が、よほど責められてしかるべきだろう」 「仮にも王を、諸侯が処断するわけには、いかぬじゃろうよ。それに、あやつはひとりで功績をたてすぎた」 「欲がないからなあ」  淑夜がもっと、功績だの名声だのに執着を持っていたら、五里霧に気づいても、すぐさま伝令を飛ばすような真似はしなかっただろう。他の将軍——できれば、他の国の者に話して、その口から大牙に進言させ、大牙から命令が下るようにすれば、功績と嫉妬の視線の半分は押しつけることができる。  淑夜のいい分を、果たして他の者が聞く耳を持っているかどうかは、この際、別問題だ。聞き入れなければ、それでもいいのだ。それで〈琅〉の奇襲を受けても淑夜の責任ではない。  もっとも、淑夜にはそこまで突き放して物を見る目はないだろう。味方を不利にしてまでも、自分の保身をはかるなど考えついたところでできない人間だし、そもそも、そんな余裕もなかったかもしれない。  淑夜と袂《たもと》を分かってから、もう五年になる。それ以前、〈魁〉で行動をともにしたのは半年あまりにすぎない。だが、巨鹿関近くの谷底で傷ついた彼を文字通りひろった時から、律義な性格は見抜いている。淑夜が利己的には徹しきれないのを承知で、策を仕掛けておきながら、羅旋は深く嘆息した。 「大牙のさしがねだとは思わない、むしろ、不本意なんだろうが——〈奎〉は、生きた長塁を自分の手でとり崩したようなものだ」  その羅旋の感想は、大牙の心中とぴたりと一致していた。 「——あの石頭めらが」  歯ぎしりしても、追いつかない。 「すまぬ」  と、淑夜にも頭を下げた。ただし、立ち会うのは冀小狛将軍のみである。淑夜に処罰と後送を申し渡そうというのに、他のだれも立ち会わなかったのは、さすがにその不当さを皆、内心では後ろめたく感じているのである。 「俺の思慮が足りなかった。つい、頭に血がのぼった。それなのに、あいつら——」 「大牙さま。もう、いいではありませんか。終わったことを、とやかくいっても始まりません。それより、これをいい結果へ変えることを考えましょう」 「禍《わざわい》を転じるのは、簡単ではないぞ」  納得できないといった顔つきの大牙に、淑夜は笑って、 「物は考えようです。この次の戦で決着がつけばいいですが、長引いた場合、後方の守備が気になります。〈征〉との境は、夏子華《かしか》どのが目を光らせていますが、それだけで防ぎきれるものではないし——〈衛〉も気を許してしまうには、問題のある相手です」  少し口ごもったのは、一瞬のことだった。 「それに、あの羅旋が何も仕掛けてこないはずがありません。各国ごとに留守の兵が残してあるとはいえ、国主方には申しわけありませんが、十分だとは思えません。私がどれだけのことができるかはわかりませんが——どうせ、まだ〈琅〉の騎馬兵には歯がたたないこともわかりましたことですし」  苦労して育て、ようやく使えるようになった乗馬用の馬だが、案の定、戦の現場に出てみると落馬があいついだ。思った以上に、〈琅〉の馬の脚が速かったのだ。これは、騎り手の技量の差でもあり、馬自体の差でもあった。戎族の馬の系譜をひくものが多い〈琅〉の馬は、中原のものよりひとまわりもふたまわりも身体が大きく、耐久性がある。超光のようなものは稀だが、それでも中原の馬の平均よりひとまわり以上大きな馬は、ざらにいるのだ。 「それに、あの羅旋がなにも策を仕掛けずに、正面から戦をしてくるとは思えません」  いわれてみれば、そのとおりである。 「苳児《とうじ》さまをひとりにしておくのも、やはり気にかかります。苳児さまの身に何事かあったら、士羽さまに申しわけがたちません」  大牙の兄、段士羽《だんしう》の、たったひとりの忘れ形見の少女は、今年九歳になった。大牙の手元で暮らしていたが、戦の間は〈容〉の国都に送られ、〈容〉伯の一族に託されている。大牙と国主たちとの約定で、苳児は〈容〉伯、夏弼《かひつ》の許婚者に定められていたからだ。 「なにか変事があれば、茱萸《しゅゆ》に知らせてくれるよう手筈《てはず》を整えてきましたが、起きてからでは遅いですし」 「変事を察知するのは、苳児の方が早いかもしれんな」  幼くして両親や親族ほとんどすべてを失ったせいか、苳児は勘の鋭い少女で、予言めいたことを時おり口にする。それを大牙は冗談めかしていったのだが、淑夜は、今度の戦に際して、彼女が何も告げてこなかったことをかえって気にしていた。 「とにかく、なにかあれば私が、私になにかあれば茱萸が守ります。茱萸に託せば、あとは尤家がひきうけてくれるでしょう」 「そうしてくれると、俺も助かる」  ほっと吐息をつきながら、それでも複雑そうな表情で、軽く大牙は頭を下げた。これでは逆だと、淑夜は苦笑する。仮にも淑夜は、軍規違反で叱責、処罰される身なのである。後方にもどっても、当分の間、謹慎《きんしん》していなければならないのだ。 「ほんとうに、どれだけのことができるかわかりませんが」 「とにかく、やれるだけのことをやるしかあるまい」 「どうか、自重してくださるよう。冀将軍にもお願いします。羅旋の挑発《ちょうはつ》にのらないよう。なにかあったら、かならず使者をよこしてください」  戦の趨勢《すうせい》は、数日うちにはもう、〈征〉〈衛〉二国の王のもとに届けられていた。 「戦の仕切り直しなど前代未聞だ。莫迦な戦をする奴らだな」  つぶやいたのは、〈征〉王、魚支吾《ぎょしご》である。彼の見るところ、奇襲などという卑怯な手を使いながら、敵に決定的な打撃を与えられなかった〈琅〉は、しょせん辺境の、文化の遅れた国でしかない。その奇襲を見事に見破って裏をかき、絶好の機会をとらえながら、相手を叩き潰せなかった〈奎〉もまた、戦巧者とはとてもではないがいえるものではなかった。  二年前、北方諸国が〈琅〉を退け、〈奎〉を旗印として糾合されたと聞いた時には、大牙の手腕をそれなりに評価したものだ。真相は、大牙の意志に沿ったものでは必ずしもなかったのだが、魚支吾はそれを大牙の意図したものと見たのだ。実際、〈奎〉の再興を考えるなら、これは順当な道のりだった。  二年の間には、北方諸国の実情も大牙の置かれた立場の危うさもそれなりに判明していたが、その上で辣腕《らつわん》をふるってみせてくれるだろうと、魚支吾は予想していた。  だから、大牙が国主たちに遠慮し、発言をひかえ、おのれ自身の臣下を遠ざけてまで、各国の間の均衡を取ろうとしているのを見てとって、 「段大牙もその程度の男だったか」  冷笑したものである。  不当に大牙をおとしめたわけではない。魚支吾に人物や時世を見る力がなかったわけでもない。ただ、彼は生まれおちた時から一大国の主であり、他人の立場を保つために自らを犠牲にしたことなど、一度もなかっただけだ。  逆らう者があれば、官職を解いて放逐《ほうちく》すればよい。それでも邪魔をしてくるようなら、人に命じて処罰すればよいし、それでも問題が起きるなら、命を奪えばよい。彼の命令に従う者——すすんで脚もとにひれ伏す者はいくらでもいるのだ。王とは、そういうものだ。臣下を押さえられないのは、それだけで王たる資格がないということだ。  その、人が王たる資格、権力がいったいどこからくるのか、魚支吾は考えたこともなかったし、考える必要もなかった。  ただ、このままでは大牙が〈奎〉を、ほんとうの意味で再興するのは、不可能であること。北方諸国は、いずれ内部から崩壊すること、それに乗じれば、中原の半ば以上を、労せずにわが手に納めることができること。それだけわかれば、十分だった。 〈琅〉と〈奎〉の戦の趨勢も、そういう意味からいって関心を持たずにはいられなかったが、どちらが勝つかには興味がなかった。  戦下手な者同士が何度戦ったところで、互いに被害が出るばかり、国力が衰えるばかりだ。隙《すき》さえ作ってくれるなら、どちらが勝とうと問題はない。〈征〉の国力をもってすれば、残った方を併合するのに、たいした時間はかからない。問題はひとつ——いや、ふたつほどあるにしても、だ。  魚支吾は、目立たないようにそっと、左胸を押さえた。錦の深衣の上から触れるかぎりでは、鼓動は正常である。ここ一年ばかりは息苦しくなることもなく、他に異常が出ることもなかったが、病みぬけたわけではないことを、彼は直感で知っていた。  この病が再発するのと、〈奎〉が隙だらけになるのと、どちらが早いだろう。  気にかかることは、いまひとつある。  南の国境を接する〈衛《えい》〉の動きが、最近、にわかに活発になっている。聞けば、国境に位置する〈鄒《すう》〉の城に、最近、〈衛〉王、耿無影《こうむえい》がはいったとか。当然のように大軍を率いてきて、城下で実戦さながらの訓練を行った時には、支吾より〈征〉の群臣たちが烈火のようになった。 「あきらかにこれは、われらに対する挑発でございます。なにもできぬと思うて、侮られているのです」  息まいて、支吾に迫る彼らに、 「挑発と思うなら、それにのらぬことです。売られた喧嘩をわざわざ買うのは、小人のすることです」  冷然といいはなって、彼らをさらに激昂《げっこう》させたのは、漆離伯要《しつりはくよう》だった。  礼学の徒であり、謀士として召し抱えられながら、礼学を批判し、主たる魚支吾にむかってずけずけと物をいう男である。一度、支吾の意志に逆らって官職を解かれながら、やはり支吾の要請によって、元の地位にもどった。  現在は、長泉《ちょうせん》の野に落成間近となった新都建設の監督として腕をふるっているが、支吾の相談役としての立場も失ったわけではない。また、主人に対しても遠慮のない口をきく人間が、他の者に斟酌《しんしゃく》するはずがない。結果、支吾の宮廷中の顰蹙《ひんしゅく》の的となっているのだが、漆離伯要が憎まれ口をきいたおかげで、廷臣たちの攻撃の鉾先《ほこさき》は彼個人に向き、〈鄒〉の問題は一時、棚上げとなってしまった。  今回、〈琅〉と〈奎〉の戦の一報を聞いた彼は、 「段大牙は、焦っていますな」  あっさりとひとこと、評して鼻で笑った。  支吾の居室に招かれて同席していた禽不理《きんふり》が、露骨にいやな顔をしたのは、その笑い方が気にくわなかったからにすぎない。 「かといって、〈琅〉にも国力はない。これは、好機でございます。どちらが勝とうと問題ではございません。隙《すき》をうかがって、〈奎〉を——いえ、〈容〉を背後から衝きましょう。私に建策させていただければ、最悪でも、〈容〉一国ぐらいは手にいれてごらんにいれます」 「図にのるな」  禽不理は、顔を紅くして一喝した。 「そのような非道が、できると思うか」 「戦はもともと、非道です、禽不理どの。相手が他の国と戦をしていたら非道で、平時に攻めこむのは正しいとでも」 「小理屈を申すな。戦をするにも、信義というものは必要だ。すくなくとも、若君がおいでの前で詭道《きどう》を口にするな」  魚支吾の隣に一段低く座がもうけられ、少年がひっそりとかけていた。昼をも欺《あざむ》く灯火の下にいるのに、まるでそこだけ影がより集まっているようなひそやかさだった。  色白で一見、少女にもみまがうほどおとなしやかな少年で、七、八歳にしか見えないが、これで今年十一歳になる。支吾の第五子で、名を佩《はい》という彼は昨年、太子にたてられた。つまり、〈征〉の次代の王となるべく指名をうけ、父、魚支吾の政を見習うために公の席に出るようになった。  ただ、魚佩はまだ若年の上に、生来、病弱である。  本来ならば、彼の上には兄が四人もおり、その中の誰かが太子となるはずだった。ところが、つまらぬ喧嘩のあげく長兄が命を落とし、その犯人である三兄が国法によって裁かれた。長兄と同腹の四兄がこのあおりをうけて失脚し、母親の身分が低く候補から除外されていた二兄が昨年、死去した結果、残った佩を太子にたてるより他、なくなったのだった。  そのあたりの事情を、少年ははっきりと自覚できていない。兄たちの事件があった時は、今より幼く、しかも離宮でひっそりと暮らしていたからだ。ただ、周囲の空気を読み取って、なんとない居心地の悪さを感じている彼は、他人のいる場所ではどうしても萎縮《いしゅく》しがちになる。ことに父の居室には、いつも深く香が焚《た》きこめられていて、むせかえりそうになる。それがまた、少年の緊張をさらに強くしていた。  だから、耳に聞こえている話のうち、半分も理解できればよい方だった。禽不理がおそろしい顔つきでおのれの方を盗み見た時も、それが少年の教育を気づかったものだとは思えなかった。ただただ老臣の顔がおそろしく、逆に白面《しらふ》で常に冷静にかまえた漆離伯要の方に根拠のない好感をいだく結果になったとしても、仕方のないことだった。 「おや、それでは正道の戦とはどのようなものでしょう。敵の二倍三倍の大軍をもって正面から戦い、多大な損害を出して相手を撃ち破るような戦なら、どんな莫迦でもできる道理」 「莫迦とは何事ぞ。聞きずてならぬことを」 「両名とも、よさぬか。本題からはずれておる」  魚支吾の低い声が、ふたりの重臣の声に割ってはいった。 「戦の仕方を、そなたらに教えてもらう必要はない」 「失礼いたしました」  反射的に頭を下げたのは、漆離伯要。禽不理は、それを横目でにらみつけた。視線でことばが表現できるものならば、それはあきらかに「この成り上がり者」といっていた。  禽不理は、代々〈征〉に仕える名家の出身である。長い間、〈征〉の将軍として数々の功績をたて、先年、前任者の死去によって太宰となった。戦時においては将、平時においては相——これが常識であり、禽不理は慣習にのっとって政を統べる地位についたわけである。実際、ここ一年ばかりの内政、ことに古くからの廷臣たちの意見をよくまとめあげている。その出身や立場からいっても、彼が旧来の法や制度を保とうとする守旧派の筆頭になるのは必然だった。  一方、漆離伯要は、出身その他からいっても、その対極に立つべく生まれてきたような人間である。新参者の彼が〈征〉で発言力を持つには、新興の勢力を味方につけるより方法はない。漆離伯要の非凡なところは、既成の派閥には加担しなかった点だろう。〈征〉王の世継ぎをめぐって二派が対立を深めていたころ、彼はそれをよそ目に第三の勢力ともいうべき階層を作りだそうとしていた。  新都建設の監督となった時、彼が一番に着手したのは、〈征〉王の宮殿ではなく、太学《たいがく》の建物だった。つまり、学問所である。さらに、建物が完成するか否かのうちに人を集め、自ら講義を始めた。もちろん、魚支吾の許可は得てのことだが、これはずいぶん大胆な試みだった。というのは、本来、士大夫の子弟の学問所である太学に、彼は庶人の入学も認めるよう進言していたのである。  結局、これは守旧派の猛反対によってつぶされた。同じ試みを、〈衛〉の耿無影がすでに手がけているが、庶人の中からとびぬけた人材が出たという話は聞かず、一方、士大夫と国主のひきたてを受けた庶人たちとの間で、対立が起きているというのがその理由である。〈征〉国内に、おなじ問題を持ちこんではならないと守旧派は主張し、魚支吾もそれを認めた。  だが、つぶされはしたが、この進言はいつの間にか国中に知れわたり、野心のある若者らの間で評判となった。庶人の間ばかりではない。士大夫とはいっても、上から下まで、環境はさまざまである。貧富の点からいえば、富裕な商人より貧しい士大夫はいくらでもいるし、名族の中でも傍流の裔《すえ》ともなれば、一生浮かび上がれない者もめずらしくない。たとえば、かつての〈衛〉の耿無影がそうだった。そんな者らにとって、漆離伯要の試みは夢を具現する第一歩に思えたのだった。  漆離伯要の人気は、たいしたものとなった。彼の元へ自薦他薦を問わず、人が集まるようになった。太学への入学は許可されなかったが、漆離伯要が自邸で人に学問を教える分には、だれも文句のつけようがない。念のため、伯要は魚支吾の認可までとりつけておき、苦情をつけてきた卿大夫をやりこめて、追い返してしまった。伯要の弟子たちは、〈征〉国内では官途に就くことはできなかったが、それでも次第に無視できない力になりつつあったのである。  禽不理と漆離伯要は、いってみればふたつの階層を代表する者であり——時代の象徴でもあった。彼らのうち、どちらの意見をとりいれるかは、期せずして、〈征〉の将来を選択することでもあったのだ。 「——伯要の言も、一理あると孤は思う」 「陛下!」 「そう、いきりたつな、禽不理。白髪が増えるぞ。なにも、すぐに〈容〉を攻めよと申しているのではない。だが、みすみすの機会を指をくわえて見ていることはない」 「しかしながら、陛下。それでは大義は」 「大義名分ならば、我らにある。〈琅〉の依頼を受けて、助勢をするのであれば、だれからも何もいわれるいわれはなかろう」 「それは——〈琅〉から依頼があれば、ですが」 「してこなければ、させればよかろう」  魚支吾は、こともなげにきりかえした。こんなものは、謀略の初歩の初歩である。禽不理の正攻法は正面から切りすてたが、支吾は漆離伯要の方にも甘い顔を見せたわけではなかった。 「しかし、伯要、〈容〉を攻めよと勧めるからには、〈鄒〉をどうするのか、策はあるのであろうな。〈鄒〉にとぐろを巻いているあの蛇めは、われらが軍を動かせば、かならず背後から飛びかかってくるぞ」 「蛇」がだれを指すのかは、質《ただ》すまでもない。〈衛〉が〈奎〉と二年前、手を結んだことは知れている。どれほど極秘裏にことを進めても、一年もあれば細作がそれぐらいのことは探り出してしまうものだし、それは、〈衛〉も〈奎〉も覚悟の上だったろう。ともあれ耿無影が、自分の生命を狙った耿淑夜が〈奎〉の大牙に仕えているのを承知の上で、大牙と結んだことを聞いた魚支吾は、 「案じることはない。両者が永久に和睦しているわけがない。いずれ、隙を見せれば〈奎〉にも噛みつく気でいるのだ。あれは二枚舌の蛇だからな」  そう吐き捨てた。以来、「蛇」はここでは無影の代名詞となっている。  今のところ、「蛇」は密約を破る気はないらしい。それが自国の利益になると思えばこその選択であるにしても、〈征〉がうかつに北へ兵力をふりむければ、手薄になる背後に〈衛〉の軍が侵入することは火を見るより明らかである。そして、〈鄒〉の目と鼻の先には、落成を目前にした新都がある。〈衛〉が侵入してくるとして、真っ先に目をつけるのは新都にちがいない。 「〈容〉ごとき小国と、新都とをひきかえにするつもりは、孤にはないぞ」 「それは、臣も同様でございます。ですが、要は新都を奪われさえしなければよろしいのでしょう」 「なに?」 「兵を一万、お貸しください。さすれば、新都で耿無影めを防いでごらんにいれましょう」 「陛下の御前であるぞ、口をつつしめ!」 「太宰どのこそ、大声は不敬でしょう」 「虚言を申すなといっているのだ」 「虚言でも法螺《ほら》でもありません。新都とは、そういう城市なのです。精鋭であれば、少数でひと月やふた月、互角の戦をして持ちこたえてみせる自信はございます。万が一、〈衛〉が攻めてまいったとして、陛下が〈容〉からひき返してこられるのに、まさかふた月以上はかかりますまい」  ふつうの旅人の足でも、二十日もかからない距離である。訓練された軍勢が、急行するなら、遅くて十五日、早ければ七日で援兵が着く。 「おそらく、耿無影はまだ、わが国との全面衝突は望んでおりますまい。先年でしたか、こちらが仕掛けた謀反は見事に未然に潰されてしまいましたが、余波はまだ、くすぶっております。新都に手を出してくる余裕が、ほんとうにあるかどうか。あったとしても、その後のことを考えれば、うかつに深入りはできぬはず」 「はず、だの、おそらくだのと、仮定の多い話だの」 「ならぬ、かなわぬという話よりは、まだ可能性があると存じますが」  禽不理の皮肉を、伯要はあっさりと蹴り捨てた。 「それに、どちらにせよ、今すぐという話ではありませんよ、太宰どの。〈奎〉——北方の諸侯が〈琅〉との戦に夢中になって、もっと大きな隙を作った時が好機。その好機をのがさぬように準備を進めようという話ですから」 「そんな機会が、ほんとうに来るのかと申しておるのだ、儂は。準備はしたが、空頼みでは、承知できぬ者も出る」 「さて、そればかりは、私も神ではありませんから。ただ聞くところによれば、段大牙の懐刀《ふところがたな》の耿淑夜が、後方へ戻されたとか。これがわが方に吉と出るか凶と出るかで、状況が変わってきましょう」 「耿——淑夜?」  一瞬、禽不理が不思議そうな顔をした。 「耿——ああ、耿無影を狙った刺客か」  一般の認識は、そんなものだろう。というより、五年前の一連の事件の印象があまりにも強く、耿淑夜の名はいまだに、無謀な刺客ということばと強く結びついているのだった。 「刺客あがりの他国者が、戦の前線からはずされたことが、それほどの大事か」  だが、禽不理の質問を、漆離伯要は敢《あ》えて無視をした。何が今後の脅威となり得るかは、さすがの彼にも完全な予測は不可能だったし、他国の、会ったこともない若僧の才をおのれと同等と認めてみせるほど、彼も寛容ではなかった。 「戦に勝つためには、さまざまな要因を念頭において、事を進めねばならぬということです。どうしても、とは申しませぬ。これは、陛下がご判断なさること。我らはただ、腹蔵ない意見を申し述べるのが役目です。そうでありましょう、禽不理どの」  わざと、禽不理を名で呼んでから、 「〈琅〉と〈奎〉がこのまま争えば、いずれ、北方諸国はひとつずつ瓦解していきましょう。しかしそれには、十年以上の年月が必要で、しかも、現在、〈奎〉と手を結んでいるだけ、〈衛〉の方が有利。耿無影に先を越されることになるかもしれぬと、つけ加えさせていただきましょう」  決断をあずける形をとってはいたが、巧妙に魚支吾の自尊心をくすぐりけしかけているように、禽不理の耳には聞こえた。実際、そういう作用も、たしかにあった。  その上に、漆離伯要はさりげない風を装いながら、ひとこと付け加えてみせた。 「それから、これは余談でございますが、先日、天文を教えております折りに、北天に孛星《はいせい》の兆《きざ》しを発見いたしました」 「——なに?」 「そのような話、どこからも聞いておらぬぞ。そもそも、儂は見ておらぬ」 「まだ、常人の目ではとらえられませぬ。ですが、これは、北方の国に大きな異変が起きる兆し。これが天意だとすれば、機はかならずおとずれましょう」  魚支吾は深く息を吸い、腹の底からゆっくりと吐き出した。風のような、にごった音が吐息に混じっていた。 「——この国は、孤だけが築いたものではない。王の称号は孤が手に入れたものだが、正直にいって、その実権はかつての〈魁〉に遠く及ばぬ。孤の次の代に、この位を譲ることを考えれば——」  と、灯火の陰で、身をひそめている少年に鋭い視線を送った。深夜近くである。少年は、疲労のためか、うつらうつら眠りかけていたが、視線に撃たれたようにぴくりと身を起こした。そのおどおどとした表情に、ふたたび魚支吾は嘆息をもらした。今度は低く、聞こえるかどうかという声で、 「孤の生きている間に、中原を統一しておくに越したことはない」 「…………」  決断がくだったなと、禽不理も漆離伯要もそれぞれの立場で感じ取っていた。      (三)  正式の戦——といういい方は妙だが、事実だから仕方がない。  そういって、大牙は戦車の上で苦い顔をした。 「正式の戦となると、相手の構えも違ってくるな」  と、つぶやいて、前方、西の天をにらみつけた。  天となだらかな稜線《りょうせん》との間に、黄色みを帯びた靄《もや》が湧きあがっていた。敵軍の数や編成、行軍の速度から、疲労の度合いまで、慣れた者なら靄を見ただけで判別してみせるという。望気術という学問もあるが、大牙には残念ながらそんな才能はない。小なりとはいえ一国の世継ぎの公子だった彼だから、人並み以上の学問は修めているのだが、占術がらみの分野にまでは手が届いていなかった。 (淑夜がいれば——)  腹の底で、何度目、何十度目かの繰り言をつぶやいてから、大牙は首を横に振る。いっても仕方のないことだ。淑夜は、とりあえず〈貂〉の国都へもどるよう命じられて、いまごろは到着しているころだろう。国主たちの承認がなければ呼び返すことは無理だし、今から呼び返しても間に合わない以上、淑夜抜きで戦うしかない。 「陛下、合図を」  冀小狛が、隣にならべた戦車の中から声をかけた。とはいえ、大牙が声を発する必要はなかった。ただ一度、かるくうなずいてみせればよかった。  冀小狛が手を上げて合図を送ると、前方のどこかで鼓の音が鳴った。音が、さらに前方の鼓の音に伝えられる。大牙のはるか前方で、戦端が開かれる音だった。  大牙の立つ位置は、長塁からすこし後方に下がったところで、わずかな高台となっている。布陣の最後方へまわされたのは、前回の突出に国主たちがあわてたせいである。ただ、前回は大牙の存在を誇示して、騎馬軍をひきつける策だったために前線に立っていたが、総大将が陣のもっとも奥に位置するのは本来の形なのである。  だが、大牙は不満だった。こんな不満を自分がかかえていたことに、おのれでも驚いたほど、納得していなかった。 (これでいいのだろうか)  安全な場所にいるおのれが、ひとつうなずくだけで、長塁の周辺は戦塵《せんじん》の巷《ちまた》となる。生命のやりとりの場となる。  今まで——先日の小競り合いまで、大牙が経験してきた戦はすべて、彼自身が前線に近いところに身を置き、時には彼自身の生命を的にしてきた。無謀だといわれながらも彼が決して引かなかったのは、他の将兵——甲士、歩卒を問わない全軍に対しての責任をとっていたからだ。もっとも、自覚しての話ではない。今日、ここに立って理由のわからないうしろめたさを感じた上で、やっと理解したことだ。 (俺は、やはり王などというものに向いていないのではないか)  このまま、諸侯たちの利害をうまく調整しながらまとめあげ、北方の狭い範囲でも〈奎〉という国の形を確立することは可能だと思う。無理な拡張を考えず、国土を守ることだけに専念すれば、彼一代の間は他国の侵入を阻むことも可能だろう。だが、 (その後はどうなる)  彼はまだ、妻帯《さいたい》もしていない。王の正妃ともなれば、国主の娘か、少なくともその一族の娘の内から選ばなければならないが、大牙が特定の一国と姻戚《いんせき》になることは、国の間の微妙な均衡と信頼関係を崩すおそれがある。せめて、もう少し趨勢がかたまるまで、ようすを見る必要があった。いや、それもこの北方諸国の王の座にしばりつけられるのを避けるための、口実にすぎないのかもしれなかったが——ともあれ、妻もおらず、当然、後をつがせるべき男子もいない大牙が、次の時代のことを考えるのは、滑稽《こっけい》といえば滑稽だったかもしれない。  しかし、滅んでしまった〈魁〉の政や制度や慣習を、そのまま復活させたとしても、長続きするとはとても思えなかった。それだけは、確かだった。  それを指摘してのけたのは、実は淑夜である。しかし淑夜も大牙も、では、別の国の形を提示しろといわれれば、具体的にはなにも考えていないというしかなかった。考える余裕がなかったのも事実なのだが、 (それが見えないまま、こんな戦を始めていいのか)  大牙は、かすかな迷いを捨てきることができなかったのだ。  大牙の位置からは、長塁を直接見ることはできないが、西方の戦場となるべき草原の一部を見てとることはできた。黄色い靄でしかなかった敵が、黒い染みのような形をとって出現するのを、そして、長塁のあたりからわっという喊声《かんせい》があがるのを大牙は見聞きした。 (この戦は、勝てる)  そう、大牙は確信した。にもかかわらず、身体の内に不安が、ゆっくりと小さな根をおろす感覚をも、彼は感じとっていたのだった。 「いいか、死ぬなよ」  羅旋は、配下の騎兵のみならず、全軍にそう伝えさせた。 「ひとりでも多く生き残って、撤退しろ。不利だと思えば、逃げてもかまわん。ただし、下手に逃げるとかえって命があぶないからな。戦場を抜け出せたら、あらかじめ知らせておいた場所に集結をしろ。いいか、ひとりで安邑まで逃げようとするとかえって、追撃を受ける。生き残りたかったら、俺のいうとおりにしろ」  負けると決まった——負けて見せなければならない戦でも、干戈《かんか》を交える以上、死傷者は出る。これは遊びでも訓練でもないのだから、当然の話だ。みすみすそんな戦のために、兵を死なせることになるのだ。これで胸が痛まない者がいたら、そいつは人の上に立つ資格はないと、彼らより先に出ていく戦車と歩卒たちを見送りながら、羅旋は自嘲気味につぶやいた。 「だが、人を死なせなけりゃ、やっぱり人の上には立てない仕組みになっているのさ。俺は別に、人の上に立とうなんぞ、思ったことはなかったんだが」 「いまさら、泣き言をいうでない」  笑い飛ばしたのは、すぐかたわらに立つ五叟老人だった。 「おぬし、今まで何人の人を殺してきたな」 「そうだな。これが、初めてのことじゃないな」 「これで終わりというわけでもないの。まあ、覚悟を決めて、人を殺してくるがいいわい。それで、結果、何かが作れるものならば、それも無駄ではなかったことになる」 「なにか——か」 「そう、なにか、じゃ」  五叟老人は、歯を剥《む》き出して笑った。 「おぬしがその気になれば、大きなことができるはず。中原を統一することも、夢ではない」 「妙なことをいうな、こんな時に」 「こんな時だからこそ、いうのさ。例の、凶星の話な」  と、声を落として、老人は小さく手招きした。|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》の手綱をおさえながら、羅旋は、小柄な老人に合わせて身体をかたむけてやる。 「俺の目でも、まだ見えんぞ。ほんとうに、そんな星が現れるのか」 「——もうそろそろじゃ。十日のうちには、誰の目にも見えるようになる。だから、おぬしだけにいうておく。あの星の出現を予言できる者は、中原にも多くおろう。だが、星が示す真の意味を読みとれるのは、そうだの、儂の他には、あの冉神通《ぜんしんつう》めぐらいなものじゃろう」  互いに遺恨《いこん》のある方士の名を口にして、五叟老人は皮肉っぽく笑った。 「真の、意味?」 「これは、他のだれにもいう気はない。如白どのにもな。あの星は、赫羅旋、おぬし本人じゃ」 「…………」 「どの星にも、どの天にも属さず、やがて北天の星が形づくる帝座を侵し、とってかわる命運にある。あれは、おぬしじゃ」  低く低くささやいて、ぴたりと口をとざし、うかがうように上目がちに羅旋の顔をじっとにらみつけた。その両眼が、いつにない真剣なものをたたえていることに、羅旋は気づいていた。五叟老人が、この瞬間、一世一代の予言をしてのけたことも理解していた。おそらく、それが真実であることも。  にもかかわらず、彼はしごく平静に反応した。  なにげない動作で身体を起こし、冷ややかな視線で老人を見下ろし、 「天の星と、俺と、なんの関係がある」  あっさりと、いってのけたのだった。 「たとえば、今、ここで俺が死んだとしたら、その星は消えるのか。そうじゃあるまい」  手綱をひきよせ、軽々とした動作で馬上の人となった。 「俺は俺だ。それ以外のなに者にもなれん。五叟、おまえがおまえにしかなれなかったようにな。人を扇動するには、一番まずい手だぞ」  五叟老人も、退き際は心得ている。話に乗ってこなかったと見たとたん、いつもの人をくった表情にもどって、 「ふむ。素直に認めるとは思っておらなんだが、やっぱり、駄目か」 「その話、他の奴にはするなよ」  片手に|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》の手綱を、もう片手には予備の栗毛馬の手綱をひき、羅旋は馬をうながした。少し離れたところに、羅旋の指示を待って、徐夫余たち、騎兵のうちでも主だった者らがたたずんでいた。 「先刻、承知しておるわい。——気をつけるのじゃぞ。淑夜こそおらぬが、段大牙をあなどると、痛い目にあうぞ」  聞いているのかいないのか、羅旋の広い背はゆっくりと遠ざかる。後に、徐夫余をはじめとする騎兵が続く。彼らの背を見送りながら、しかし、老人はなおも低く、つぶやいたのだ。 「凶星の主だといわれて、舞いあがるような手軽な奴なら、その資格はないわい。本人が認めようと認めまいと、真実は変わらぬ。おぬしが拒絶した命運が、おぬしをどう導くか、ゆっくりと見せてもらおうかの」  先に進軍の鼓を鳴らしたのは〈奎〉だったが、動いたのは〈琅〉の方が早かった。方子蘇が率いる戦車の先鋒が、長塁の真正面にむけて疾走を開始したのだ。しかも、歩卒の速度を無視して、戦車のみの突出である。  長塁の正面を守っていたのは、〈乾〉軍だった。〈乾〉伯、夏夷は「来た」と思った。〈琅〉の戦法が、速度を重視してくるのは、先刻承知である。 「用意」  長塁の上に半身を乗り出した弩手に、命令が下る。一斉に弩《いしゆみ》の弦が引き絞られる。 「射て!」  戦車群を十分に引きつけておいて、矢の雨が降った。  百本、二百本——。  標的は全速力で走っているのだから、そう簡単に命中するものではない。だが、これだけの本数が、ある程度の範囲をめがけて放たれるのだ。戦車の上で、人影がのけぞった。御者か、戈《ほこ》を持った右士か。車から転げ落ちる影こそ少なかったが、その上へ第二波の矢の雨が降れば、制御を失い、暴走を始める戦車も現れる。  もちろん、〈琅〉軍もやられるままにはなっていない。長弓をかまえた左士が、懸命に応戦する。揺れる車の上からの狙いは、なかなか定まらないが、的中した時の矢勢は、弩と比肩《ひけん》できるほどの威力を持っていた。 「ひるむな! 長塁の中に入ってしまえば、弩なんぞ役にたたん」  方子蘇の声が、車輪の音を圧して響きわたった。平素はむしろ温和な人柄が、別人のような形相《ぎょうそう》である。旗をひるがえす戦車の上で、降るような矢にも面をそむけず、凛《りん》と命令を発するところは勇将と呼んでよいほど、一幅《いっぷく》の絵にもなりそうな姿だった。  その叱咤《しった》に引きずられるように、戦車群はさらに速度を上げる。またたく間に、長塁とは指呼の間となった。こうなると、弩のように矢をつがえるまでに時間のかかる武器は、役にたたない。 「引け!」  命令一下、弩兵は一斉に後方へ下がる。入れかわるように、歩兵が長塁の上へ駆けあがった。〈乾〉軍の戦車は、長塁の切れ目からどっと押し出した。と、同時に、鼓がふたたび響きわたる。 「——なに?」  とまどったのは、方子蘇だけではない。  鼓は進軍の合図だが、戦の途中で鳴らすことはあまりない。いったい何の合図かと不審に思った〈琅〉軍の脚が、わずかに緩む。  疑問の答えは、すぐに出た。  長塁の真正面からまず〈乾〉軍が、両翼からは〈容〉、その他の旗をはためかせた戦車が、飛び出してきたのだ。その車の上に立つのは、御者ともうひとりだけ。つまり、乗員をひとり減らし、車の脚を速めたのである。  二年前に両軍が激突した時に、〈琅〉が車の速度をあげるために採った方法だった。側面を衝かれかけて、方子蘇の手勢の間に動揺が走る。  それだけではない。  背後——斜め左後ろからも、沸き上がる喊声を方子蘇は聞いたのである。 「挟撃か」  方子蘇は、唾を吐き捨てながらつぶやいた。  それのみではない。  方子蘇の後ろには、羊角将軍が率いる戦車軍がもう一隊、続いてくるはずだった。その羊角軍との間に、〈貂〉の旗を掲げる一団が、錐のように割りこんできたのである。つまり、方子蘇が率いる五千の先鋒は、分断されて、〈奎〉軍の包囲の中にほぼ孤立したのだった。 「ひるむな、引くな。こうなったら、前へ進むしかあるまい!」  とっさの判断にしては確固たる口調で、方子蘇は命じた。彼の名を染めぬいた旗が激しく振られた。背後、はるか遠くで低く鉦《かね》の音が聞こえた。羊角の軍が退却する合図だが、 「かまうな!」  方子蘇はさらに声を荒げ、手にした長弓をせいいっぱい伸ばして馬の背にたたきつけた。戈をかまえた右士が、大きくふりかぶったのは、正面からすれちがった〈乾〉の戦車にたちむかう準備である。  勝負は一瞬のうちについた。すれちがう戦車の上から、戈もろともに人影がころげおちるのが、視界の隅をよこぎった。 〈琅〉の右士の戈の方が、わずかの差だが長く、重かったのだ。詳細に調べたわけではないが、おそらく兵の平均をとれば、〈琅〉の兵の方が体格がよいはずだ。それが、このたびの戦の、〈琅〉の強みであり頼りの綱でもあったのだ。〈乾〉軍の歩卒だろう、前からも後ろからもわっと群がってくる。歩卒の足ならば、戦車で十分に振り切れるし、正面から来る戦車はたたきつぶせる。だが、横あいからつっこんでくる戦車は、ふたりしか載せていない分、足が早く、また避けることもむずかしい。  長塁の中へ走りこめれば、なんとか——と、方子蘇は考えていた。正面の敵は、自力で倒せる。またひとり、右士が人影を対抗車からはたき落とした。方子蘇も、相手の御者をひとり、射ぬいたところだった。  だが、戦車では背後の敵、側面の敵には抗しようがない。活路があるとすれば、長塁の内に飛びこみ正面突破をはかるか、長塁沿いに横へ逃げることだけだ。正面は——おそらく何重もの陣が布《し》いてある。その守りを突破して、〈奎〉王、段大牙を倒すには、敵に倍する軍勢が必要だ。とすれば、のこる手段は後者のみ。長塁沿いに走れば、すくなくとも一方の側面からは、戦車で攻撃を仕掛けられる心配はない——。  方子蘇の戦車がまず、最初に長塁を越えた。後に、何台かの戦車が走りこむ。砂塵が大きく舞い上がったのは、急な速度でほぼ直角に曲がったからだ。御者の技量と馬の訓練と、双方によほどのことがなければ難しい技である。  方の旗が、大きく振られた。  ——と。  はるか背後で、ひときわ大きな喊声が怒濤《どとう》のようにあがるのを、方子蘇は聞いた。 「来た!」  誰が来たのか、確認するまでもなかった。馬蹄の響きが、ひときわ高く強く、戦場へ乱入して来た音にきまっている。 「方将軍!」  待つまでもなかった。  長塁を右手にとって、全力疾走する方子蘇の戦車に、横あいから覆いかぶさってきた大きな影がある。人の背丈ほどは楽々とある長塁を、ひと飛びで越せるものが他にあるとは、方子蘇は思わなかった。彼もまた〈琅〉の武将であり、〈琅〉の戦のやり方を熟知していたのである。 「遅いぞ、羅旋!」  これは少々、的はずれな発言だった。羅旋は、以前からの打ち合せどおりに行動し、長塁へ到達した時機もまた、ぴったりだったのだ。だが、羅旋はよけいな抗弁はしなかった。 「すまん」  ひとこと告げると、いきなり鞍の上で上体をひねり、弓をひきしぼった。ふつう、中原の弓は竹を何枚か重ねて作るが、羅旋の弓は戎族風に動物の角でできていた。角を薄くけずったものを何枚も膠《にかわ》で貼り合わせ、動物の腱《けん》でさらに弾力と耐久性を加えてある。羅旋の弓は特別製で、腕自慢の集まる彼の配下の中でも、これを引けるのは数人だけである。  その剛弓を軽々とひきしぼり、実に無造作に放った。  弦鳴りの音は周囲の空気を震わせ、突風を巻きおこすかと錯覚さえさせた。放たれた矢もまた、無造作に飛んでいくように見えて、追撃してくる戦車の御者の胸もとに、あっさりと突きたち、突き抜けた。  まるで、最初からそこへ道糸でも張ってあったような鮮やかさと——そして、すさまじさだった。御者は、鉄の札を連ねた胴甲をつけていたのである。羅旋の矢は、それを紙かなにかのように破って、背まで抜けていた。  一瞬で、だれもがそこまで見てとったわけではない。だが、矢勢や羅旋の腕や、彼の後につづいて次々と長塁を越し、味方の戦車と併走する騎兵たちの慓悍さは、追撃の勢いを萎《な》えさせるには十分だった。  騎兵たちは、〈貂〉の戦車をあっさりと蹴ちらし、ここまで侵入してきたのだ。小回りのきかない戦車の間を、馬で疾走することなど、彼らにとってはなにほどのことでもない。だが、騎兵に慣れない中原の人間たちにしてみれば、方術を使ったか魔物でも現れたか——そんな尋常でないものを見たような感覚だったのだ。  恐慌が、戦意を減退させた。  また、趨勢の見えた戦で、深追いをして被害を増やすことを、〈乾〉も〈貂〉も嫌った。方子蘇のひきいる戦車五十台のうち、それでも四十台余りが、長塁の南の端の切れ目から逃れるのを、彼らは黙認したのである。  長塁の戦は、こうして終わった。  だが、〈奎〉と〈琅〉の戦はこれでは終わらなかった。退却した〈琅〉軍は、三舎(一舎=約三十キロ)ほど西にある、庸関《ようかん》という小さな城市に集結し、大牙の降伏、臣従の勧告を拒んだのである。 [#改ページ]  第三章————————危急存亡      (一) 「庸関《ようかん》にはいった?」  報告をうけて、大牙《たいが》は眉をひそめた。 「奴らしくないな。〈琅《ろう》〉らしくもない」  つぶやいて、首を振った。 〈乾《けん》〉伯、夏夷《かい》も〈貂《ちょう》〉伯、夏子由《かしゆ》も意見としては同様だったが、その後の対応策について意見が分かれた。 「庸関という城市の構造は、よく知れておる。どうせ、長い間は支えきれぬはず。このまま、余勢をかって攻めてしまうべきじゃ」  というのが、年長の〈乾〉伯の意見であり、 「攻城戦をなめてかかってはいけない。道具も兵糧《ひょうろう》も必要だ。ここはいったん引いて、軍を立て直してから、あらためて攻めるべきです」  というのが、壮年の〈貂〉伯の主張だった。どちらももっともな意見に聞こえたが、これには裏があったのだ。 「もどるというが、子由どの」  夏夷が、むずかしい顔をしたのも無理はない。 「このあたりには、梯車《ていしゃ》に使うような木材がないのだから、即席で作るわけにはいかぬぞ。今からおのおのの国にもどり、攻城の準備をして、ふたたび結集するまでに何日かかると思うておる。その間に、〈琅〉が長塁まで再度押し寄せてきても、今度は守る者がないではないか。そればかりではない。そんな悠長なことをしている間に、東の方の情勢がどう変化するかわからぬ。隙を見逃してくれるほど、甘い男ではないぞ、魚支吾《ぎょしご》めは」 「東の守りは、〈容《よう》〉の夏子華《かしか》が固めています。あの男に任せておけばよいではありませんか」 「戦は矢と同じで、勢いが大切じゃ。弱い矢でも、剛弓で射れば甲も貫く。剛矢でも射手の力が弱ければ足元に落ちる。拙速《せっそく》でもよい、たたみかけておかぬと、〈琅〉のような国は立ち直りが早いぞ」 「ならば、御身は御身の思うとおりになさればよい。私は私で、思うようにいたします」  と、夏子由は突き放すようにいった。大牙の眉がはねあがるより早く、 「それは、戦を放棄なさるということか、〈貂〉伯」  冀小狛《きしょうはく》が、大牙のうしろから膝をのりだした。 「今のご発言、由々しき問題ですぞ」 「国主同士の話に、将ごときが口をはさむか。だまっておれ、冀小狛!」 「だまりませぬぞ。敵を目前にして引きかえされるのは、戦の最中に逃げ出すのに等しい行為。それに、そもそも、この戦は陛下の名において起こされたもの。陛下のご命令、ご承諾もなしに行動されるということは、反逆ととられても仕方のないことですぞ」 「口が過ぎるぞ、小狛」 「人の口を封じる前に、ご存念をお聞かせいただきたい、〈貂〉伯。でなければ、私は黙っても、他の方々が承知なさいませんぞ。——そういえば〈崇《そう》〉国が遅参《ちさん》と称されて、結局、戦には間に合われませんでしたな。〈崇〉と〈貂〉の間には、いささか因縁が積もっているはず。まさかとは思うが、この非常時に、味方の内で争い事を起こそうとなさるのではありますまいな?」 「いいかげんにせぬか!」  北方諸国の国主たちのほとんどは、〈魁〉の王家の血筋をひく眷族《けんぞく》である。男国子国といった小国の国主であっても、生まれた時から名家の公子として、大切に育てられている。その分、人を人とも思わない態度や、こらえ性のない性格も助長されるもので、夏子由もまた、その例外ではない。痛いところを少し突けば、簡単に感情を爆発させられることを、冀小狛は承知していたのである。  ちなみに、大牙が名家中の名家、〈奎〉伯の世子と定められて育っていながら驕傲《きょうごう》さが目立たないのは、年齢の離れた兄、段士羽《だんしう》の注意深い教育の賜物《たまもの》であって、きわめて希有なことなのである。  ともかく、冀小狛に反駁されて、夏子由は簡単に自制心をうしなった。 「この私を、不義とそしる気か」 「落ち着かれよ、子由どの。冀将軍の言にも一理ある」 「〈乾〉伯まで、なにを!」 「——大声を出すな」  ここでようやく、大牙が口を開いた。いかにも鷹揚《おうよう》に、肩でひと息ついてみせてから、 「冀小狛」 「は」 「仮にも一国の国主を疑うからには、確たる証拠があってのことだろうな」 「いえ——その」 「ないのか」 「は」 「粗忽者《そこつもの》。無礼ではないか」  一の腹心ともいうべき冀小狛を、衆人環視の中で叱りとばした。 「この責は、あとで問う。おのれの天幕へもどって、控えていろ。これ以上の口出しは許さぬ」  毅然《きぜん》とした口調で、おのれの右腕を下がらせたのには、居ならぶ国主たちの方がおどろいた。これでは、冀小狛の方の面目は丸つぶれではないか。  冀小狛は無骨だが誠実で、小細工のきかない性分はかえって、国主たちには評判がいい。あれは忠臣だと評判の武将を退けて、 「これでよいか、〈貂〉伯」  大牙が念を押すように告げたには、それなりの苦衷があってのことだろうと、だれもが推測した。それがわからない夏子由でもないはずだ、と皆が思ったのだが、 「英断、おそれいります」  いかにも不満そうな口調だった。  国主たちの中では若い方だが、壮年にさしかかっている夏子由が、まだ二十代の大牙にむかって頭を下げるには抵抗があるだろう。だが、その抵抗が誰の目にも見えてしまっては、大牙の立場さえなくなってしまう。ひとりが大牙を軽んじはじめれば、他の者に対しても示しがつかなくなるおそれがある。  それが理解できない大牙でもないはずだったが、これ以上、とがめだてては事を複雑にするばかりで、なんの益もないと見切ったのだろう。 「なに、たいしたことではない。〈貂〉伯ともあろう人物が、みすみす敵を利するようなことをするはずがない。それに、攻城のためにも、器械が必要なことも知っている。以前、義京《ぎきょう》の戦でその準備がなかったために、俺は一生悔やんでも悔やみきれないことになった」  かつて、義京の乱のおり、太宰子懐《たいさいしかい》が〈魁〉王を弑《しい》したと聞いて、急遽《きゅうきょ》、巨鹿関《ころくかん》からとってかえした大牙は、義京の厚い城壁に前途をはばまれた。あの時、天候が味方した上に羅旋《らせん》が工夫を凝らしてくれて、かろうじて城壁の一部を破ることに成功はしたが、わずかな差で士羽は助からなかったのだ。その悔いが、〈貂〉伯の意見を認めさせたのだと、誰もが思った。だが、次に大牙は意外なことばを口にした。 「故に、〈貂〉伯には、ここから国へおもどり願おう。ただし——」  低くあがりかけた一座のどよめきを、大牙の声がたたみかけて圧倒する。 「庸関を攻めるのには兵が必要だし、器械を運ぶのには、それほどの兵は要らないはずだ。全軍とはいわない。九千ほど、置いていってもらおう」  といっても、〈貂〉は今回、一万しか出兵していない。九千といえば、全部といっているのに等しい。 「——そんな」 「なにか、不満だろうか」 「そんなことが、できるわけがなかろう。兵は、国主のものであって——私がいなければ、だれが指揮を執ると」 「〈容〉軍は、執政の俺が将軍たちと相談の上で指揮している。将さえ有能なら、卒は動くものだ。さいわい、〈貂〉の将兵は精鋭ぞろいだ、心配は要らぬ。安心して任せていただこう。他の方々にも異存はないな?」  大牙の一人称を訂正する余裕のある者は、いなかった。誰もが、唖然《あぜん》としたのも無理はない。将としては有能だが、けっして知恵者とは思われていなかった大牙が、〈貂〉伯をあざやかにやりこめた上、その軍勢の指揮権をとりあげ、大半をおのれの下に収めてしまったのだ。 「だから、安心して〈貂〉へもどり、器械を調達してきてほしい。ただし、早くしないと、我々の方が先に勝ってしまうぞ」 「陛下、その——」  夏子由は、前言を撤回しようと試みたが、大牙は気づかないふりをした。 「だれか、〈貂〉伯をお送りせよ。一日も早く、戻ってきていただかなければならぬ。今日のうちに、出立された方がいいな。準備はこちらでやらせよう」  夏子由に反論の余地はなく、彼をかばう者もいなかった。夏子由の腹の底は、読めていたからだ。 〈貂〉は〈崇〉と長年、境界に関して問題を起こしている。〈崇〉の遅参の理由を勘ぐった夏子由は、この機に〈崇〉の非を鳴らし、懲罰を加えようと考えたのだ。それには、早急に、戦に一段落つける必要がある。〈崇〉が結局、間に合わなかったという事実を作らなければならないからだ。このまま、〈琅〉を追撃している間に〈崇〉が馳せつけたら、絶好の口実がふいになる——。  だが大牙の立場からいえば、兵力さえ残るなら、国主がひとりふたりいなくとも戦況には影響ない。残った者にしてみれば、功績を立てる確率が高くなる分、名門意識をふりまわす〈貂〉伯あたりが不在の方がやりやすいのだ。  焦った夏子由の負けだった。  夏子由は、その日のうちに十台の戦車とその歩卒とに守られて、東をさして出発していった。伏せた顔をこわばらせ、逃げるような勢いであったというが、その夜の大牙の天幕の内部を見ることができれば、きっと激怒したことだろう。 「見事なお芝居でしたね」  そういって喉の奥で笑ったのは、ひどく角ばった顔の小男だった。その異相といい垢じみた服といい、到底、貴人の前に出られるような種類の人間ではない。にもかかわらず、彼は大牙の前に筵《えん》を与えられ、酒を勧められて上機嫌になっていた。さすがに同席している冀小狛が渋い顔をしたが、なにもいえないでいる。というのも、 「淑夜に頼みこまれて、ここまでお使いにきた時には、どうなるかと思いやしたがね。いやあ、おもしろかった。ここまで、淑夜のいうとおりに事が運ぶとは、思いませんでしたよ。正直いって、無駄足覚悟だったんだが、こりゃあ、たっぷりとほうびがいただけそうだ」 「調子にのるな、野狗《やく》とやら」  冀小狛が低く押し殺した声でさえぎるのを、大牙が手まねで止めた。 「かまわん、いわせておけ。事実、こいつが来なければ、離脱は夏子由の一万だけではすまなかったはずだ。ほうびのひとつやふたつ、安いものだ」 「しかし——」 「けちなことはいいっこなしですぜ、将軍さん。たかが夜盗風情《やとうふぜい》と思ってるんでしょうがね、たった三日で、〈貂〉の国都からここまで、しかも人に知れないようにきちんと伝言を運べる奴は、中原広しといえどこの野狗だけだ。いくら、淑夜が千里眼もどきの頭の持ち主でも、おいらがちょうどようすを見にいってなけりゃ、手も足も出てないところですぜ」  小男は、ぐいと胸を張った。  野狗というこの男、本来の仕事は夜盗だというのだが、脚が異様に早く、またどんなところにも忍びこんでしまう。故に、今は〈衛《えい》〉にいる豪商の尤家《ゆうけ》に時として雇われて、使者の役目を果たしたりすることもあった。大牙ともその縁で、旧知の間柄となった。ただし、冀小狛は事情こそ承知していたが、今回、これが初対面である。夜盗あがりという先入観もあって、彼が野狗に反感を抱いたのも、無理のない話ではあった。  野狗の、大牙に対するなれなれしい態度も、気にさわったのだろう。 「ふん、〈衛〉の手先めが」  つぶやくように、吐き捨てた。 「聞き捨てならないことをいうね、将軍さん。おいらのことはともかく、それじゃ、まるで淑夜の奴が、こちらを裏切って耿無影《こうむえい》と通じてるみたいに聞こえるぜ。それとも、そう思ってるのかい?」 「い、いや、そういうわけでは」 「いいや、そういうわけさ。どう思われますね、大牙さま?」 「——俺たちの離間を図る気なら、ここで斬るぞ」  大牙が、膝の上の大剣を叩いたのは、もちろん冗談だが、 「それ。それを心配してたんですよ、淑夜も、尤夫人も」  野狗は、ぴしゃりと膝を打った。 「尤夫人?」 「そうですともさ、将軍さん。おいらは尤家の使者であって、耿無影の手下じゃない。そりゃあ、仕事をひきうけたことは一、二度あるが、みんな尤夫人がらみでなけりゃ断ってた。おいら、ああいう底意地の悪そうな奴は嫌いでね。尤夫人がひどく心配しなさるから、ちょいと淑夜のようすを見に来ただけなんでさ。そもそも、尤夫人のご心配というのがね——」  と、野狗は説明を始めた。  淑夜が、責任を押しつけられて後方に退いたという話を聞いて、尤家の女主人、尤暁華《ゆうぎょうか》が不安に思ったのは、戦場で淑夜の策が使えなくなることばかりではない。距離をおくことによって、大牙や他の国主たちの間に、淑夜に対する猜疑心《さいぎしん》が生まれないかと、案じたというのである。  淑夜はもともと、〈衛〉王の堂弟である。互いに仇と目しあっているとはいえ、いつ本当に和解するか知れたものではないと思われている。本人たちは、決して有り得ないことだと思っているし、少なくとも大牙もそれを承知しているが、周囲の人間の目はそうはいかない。それで、大牙との間にひびが入ってしまっては、とりかえしのつかないことになる。いや、それより恐いのは、周囲の人間の不信感を利用して、大牙と淑夜の離間を図ろうとする人間が出ることだ。 「羅旋の奇策に対抗できるのは、今の中原ではおそらく、淑夜さまと——〈衛〉王陛下ぐらいなもの。淑夜さま抜きでは、大牙さまが勝つのはおぼつかない。なんとしても、淑夜さまの立場を守ってさしあげねば」  そう、暁華はいったという。  ちなみに、暁華が大牙たちに肩入れする理由は、〈奎〉が滅んでしまうと、貸したものが回収できなくなるからである。今回の戦ひとつとっても、大牙は尤家から相当な額の借財をしている。人は無料で徴発できるが、馬も戦車も金銭がなければ調達できないのだから、仕方がない。 「ともあれ、そんなわけで、何か手伝ってこいと尤夫人にいわれて淑夜のところへ顔を出したら、大牙さまのところへ行け、こうこう、こういう話をしろ、だ。休む暇もあったものじゃねえ」  肩を大きく上下させて嘆息混じりに語るのだが、野狗の角ばった表情は態度を裏切って、好奇心で輝いていた。 「——諸侯の中で、離脱をはかる可能性がもっとも高いのは、〈貂〉伯です」  と、淑夜ははっきりと告げたという。 「〈崇〉との境界争いも抱えているし、世継ぎの問題もある。それに野心を持っているお人だと思っていましたから、大牙さまの即位に賛同したと聞いた時には、耳を疑ったぐらいです。本当は、ご自分が王を名乗りたくて機をうかがっていたんでしょうがね。それが不可能となった今、できるだけ大きい見返りがなければ、〈奎〉や他の国と足並みをそろえる気にはなれないでしょう。他にもっと大きな利益が望めるようなら、裏切る可能性も——」  もっとも、野狗は全部を大牙に伝えたわけではない。淑夜がその必要はないといったし、大牙もおおかた、理解をしている風だった。 「だから、退却を主張するなら、夏子由どのが最初でしょう。引き止めるのは、かえって逆効果です。むしろ、夏子由どのだけをいかにうまく追い返すか、考えた方がいい。戦に必要なのは良将良兵であって、無能な国主ではないんですから。それに、どのみち庸関では攻城戦にはならないでしょう。たてこもるには地形が悪すぎるはずですし、羅旋もそうですが、噂で聞くかぎり〈琅〉伯という人も、およそ受け身で戦をするような人間ではないようですし」  辛辣《しんらつ》なことをいいながら、淑夜は「芝居」の手順を野狗に教えた。書いたものは一字も与えなかった。野狗の技量は承知しているが、万が一の事故ということもあるからだ。  野狗もまた十分に承知の上、複雑な筋立てをきっちりと大牙に告げ、大牙は冀小狛にいいふくめて、忠実に演じてみせたというわけだ。 「たとえ千里離れていたとしても、あいつは他人を思いどおりに操ってみせるでしょうね。あんまり、敵に回したくない奴になっちまって、まあ。頭領が最初に拾ってきた時には、どうなることかと思ったもんですがね」 「頭領——?」  冀小狛が奇妙な顔をするのへ、 「赫羅旋のことだ」  と、大牙は渋い顔を見せながら答えてやった。そのままの顔で、 「それで、これからどうする気だ、野狗」  たずねた大牙に、 「帰りますよ、淑夜のところへ」  あっさりと答えて、野狗はそのまま立ち上がった。 「今からか?」  冀小狛が驚いた。野狗の足もとがふらついているのが見てとれたのだ。 「外は暗いぞ。しかも、おまえは酔っているではないか」 「おいらはもともと、夜が稼ぎ時ですからね。暗闇なんぞ、関係ありませんや。酔ってるかって? おいらを捕まえられる歩哨《ほしょう》がいたら、尤夫人が一万銭をくれますよ」  ふらつきながら、天幕の、入口とは正反対の方向の裾を持ち上げる。 「じゃ、ほうびの方は後日ということで。淑夜に伝えることは、なにかございますかい、大牙さま? いや、陛下?」 「特にない。——いや」  野狗と同様にいい直して、 「苳児《とうじ》のことを頼むと。他はどうでもいい」 「——それは、おいらも気をつけてますから、ご心配なく」  急にしおらしい顔つきになって、こそこそと天幕の裾にもぐりこみ、そのまま闇の中にまぎれこんでしまった。 「大事ありませんか」  と、冀小狛がたずねたのは、野狗の身を案じたのと同時に、野狗の素姓について疑ったためだ。 「まさか、耿無影にしてやられるということは」 「尤夫人の指図で動いているかぎり、その点は安心していいだろう。尤夫人は、耿無影を信用はしていない。こわいのは——」  そこまでいって、大牙は口をつぐんだ。 「こわいのは——なんだとおおせです?」 「いや、なんでもない」  と、ごまかしたが、大牙は不安の芽が少しふくらむ感覚を消すことができなかった。 (こわいのは、羅旋が出てきた時だ。野狗も尤夫人も、どう手をかえすか見当がつかない。連中だけじゃない。淑夜も、そして俺自身も——)  翌日、〈奎〉軍は西に向かって全軍、移動を開始した。  その結果は、十日もたたないうちに出た。淑夜の予言どおり、〈琅〉軍は〈奎〉が近づくと知るとすぐに、庸関を捨ててさらに西へ退いたからだ。  もともと、たてこもれるような城市ではなかった。庸関という地名から想像すれば、巨鹿関のような険阻な要害とまではいかなくとも、隘路《あいろ》上に築かれた城堡《じょうほ》ではないかと、中原の人間なら思う。だが実際は、だだっぴろい荒野の中央に、ぽつりと土塁を置き放したような邑《むら》なのである。規模こそ大きく、昔の〈奎〉の国都、青城《せいじょう》の半分ほどの面積はあったようだが、地形などに有利な点はなにもなく、まったくの裸城《らじょう》といってよかった。  これを見た大牙もさすがにあきれて、 「これでは、たてこもろうにも方策がない」  いまさらながらに、うなずいたものだ。  後にわかったことだが、このあたりには水源がなく、ただひと処だけ、伏流水が地表近くまで上がってきているのが庸関のあたりなのだった。東西を往来する商人や戎族といった連中が、水の補給のためにどうしても立ちよらなければならない、という意味で、関と名がついたらしい。つまり、東西の往来のために自然にできた城市であって、戦だの防備だのはまったく考慮にいれられていないのだった。  だから籠城となれば、必要な水は確保できるだろうが、包囲軍が干上がる前に肝心の城壁が破れてしまうだろうと誰が見てもいった。雨の少ない土地だから、土を積み上げ、築き固めただけで、人の背丈の二倍ほどの高さの土塁の上に、ところどころ、物見の楼が立っているといった程度の、お粗末なものだったのだ。  最初、庸関をはるかに望む丘の上に〈奎〉軍が姿を見せた時には、まだ内部には〈琅〉の旗が何本もひるがえっていた。人馬の出入りもあり、二、三万の軍勢が駐屯しているのが確認できた。  その出入りのようすからは、長塁の野から撤退してきた者たちがとりあえず逃げこんで来て、態勢を立て直し、さて、これから再度、東に向けて攻め上るか、それとも西へ撤退するか——試案の最中といった雰囲気が読み取れたものだ。  一応、斥候を放ったのは、外壁の状態だの中のようすだの、人数などを確認させて、一気におしつぶしてしまおうという気になったからだ。ところが、人を出して一夜明けたら、もう庸関はもぬけのからになっていたのだった。  斥候がもどってきて復命することには、当初から脱落者が出ていたらしい。逃げ癖がついたというのか、庸関まで戻らず、そのまま姿をくらました者もいれば、いったん合流したものの、すぐに西へ逃げていった者もいたのだという。  結局、無人となった庸関に入って、大牙たちは、もう一度軍議を開く必要に迫られることになった。 「こうなったら、安邑《あんゆう》どころか西の端の茣原《ごげん》まででも追いかけ戦い、藺如白《りんじょはく》を完全に屈服させるべきだ」  そう意見が出る一方で、 「戦が長引き過ぎる」  慎重論が、ようやく出てきはじめた。 「帥《すい》を発してから、すでに二十日以上、ひと月近くにもなる。これ以上、西へ行くとなれば、日数もかかる。糧食は敵のものを奪えばよいとしても、軍を維持するには費用もかかる。戦に勝てると仮定しても、そこから国もとへもどるためには、どれほどの日数と費用がかかるかわからないではないか。それに——」 「あまり、西に関わりすぎると、東の守備が手薄になる」 〈征《せい》〉の存在を匂わせられると、一気に、皆が不安な顔つきになる。その怯えようが気にさわったのだろうか。めずらしく、〈乾〉伯、夏夷が声を張りあげた。 「魚支吾がうかつに動けば、背後を〈衛〉に衝かれるわい。現に、今、耿無影自身が〈鄒〉に滞在して、〈征〉の動きに目を光らせているのだ。めったなことでは、〈征〉も動くまいぞ。戦に二十日以上かかったというが、それだけの日数をかけてここまで来ておいて、なんの成果もなく引き返そうとか。しかし、まんまと〈琅〉の戎族どもに追い返されては、〈奎〉の威信はどうなるのじゃ。われら夏氏の血を引く者らの誇りはどうなるのじゃ」 (まずいな)  大牙は、ふと不審を感じて、上座の敷物から腰を浮かした。〈乾〉伯は、夏氏の血を引く国主たちの中では温厚で、長老としての人望もあり、大牙も一目も二目も置いていた。〈魁〉の宗室への忠心の厚い人物だとは知っていたが、ここまで人を刺激するようなことをいう性格ではなかったはずだ。  たしかに、実際問題として〈乾〉の領土は〈琅〉ともっとも近いため、〈琅〉を屈服させて脅威をとりのぞいておく必要には迫られている。だが、こんなことまでいう必要があるのだろうか。——だれか、陰であおった者がいるのではないか。老人の自尊心をくすぐり、おだてあげている人間がいるのではないか。 〈乾〉伯の発言を止めるために、手を上げながら、大牙はすばやく目と頭脳を動かしていた。老人をあおった者がこの場にいるなら、一番に老人に同調するはずだからだ。  大牙の推測は、ある程度までは正しかった。〈乾〉伯のことばに即座にうなずいた人物が、たしかにいたからだ。ただし、同時に三人も出るとは、さすがの大牙も思っていなかった。そして、彼らがさらにその裏からあやつられていたとは、大牙には想像すらできなかったことだったのである。 「〈乾〉伯の意見はもっともだが——」 「藺如白に屈すると申されるか」  挑発的な表現に、思わず大牙は反応しそうになった。だが、「莫迦をいえ」と反論するのは簡単だが、その後をどうするか考えれば、うかつに拳《こぶし》はふりあげられない。だからといって、ここでひきかえすのも得策ではない。大牙の面子の問題ではなく、今後の諸侯との関係を考えれば、ここで彼らになんらかの形で利益をもたらしておく必要があるのだ。 「——ようすをみよう」  しばし考えこんだ末に、大牙は苦い口調でその場の全員に告げた。 「数日間、ここで〈琅〉の出方をみよう。連中の動きを見た上で決めても、遅くはあるまい。その間に、東方でもなにか動きがあるかもしれんが、この庸関ならば、急遽《きゅうきょ》、とってかえすのも容易だろう」  入城した時に城市の内部はくまなく捜索して、安全を確認した。ここはすでに〈琅〉の領内で、西方と東方を仲介する商人や、わずかな耕地を持つ農民などが住んでいたはずだった。だが、退去命令が出たのか〈琅〉軍の撤退と同時に連れ去られたのか、庶人の姿はひとりもなかった。  諸侯の軍は、ある程度の区割りをして城内の方々に散り、その夜を過ごすこととなった。一部、城門の外に残った軍もあったが、内にはいった者らは空き家になった民家に押しいって分宿した。戦車をひいていた馬たちも久しぶりに解放され、廐《うまや》に入れられ、残されていた良質の飼い葉を与えられた。  むろん警戒はおこたらず、城壁の土塁の上には一定間隔で燎《かがりび》を焚き、歩哨を立て、新月の闇の中へ目を光らせていたのだ。  夜半、火が出たのは城内からだった。しかも同時に、数か所から火の手があがったのだった。消火に手間取ったのは、このあたりはもう、水が貴重品であったからだ。伏流水を利用した井戸は健在だったが、水を汲みだすのに手間取った。あとで知れたことだが、ふだんからこういう場合に備えてあった貯水槽は、すべて、底が抜いてあった。  奇妙なのは、この火がふつうの民家から、無作為に出たことだった。しかも、人の住む部分からではなく、廐からのものばかりだったのだ。  被害も、人より馬の方が多かった。焼け死んだ馬が百頭ちかく、恐慌を起こした馬に踏み殺された者が五人、怪我人が三百人。火事のために死んだ者はなかったが、この騒ぎで庸関内の兵士たちの間に、不穏な空気がひろがった。敵が、まぎれこんでいるのではないかと、疑心暗鬼を起こしたのだ。 「——原因は、なんだ」  もちろん、大牙はすぐさま糾明を命じた。 「どうやら、廐に積まれていたものが曲者《くせもの》だったようで。藁《わら》の山から火が出たと証言する者がおります」  冀小狛が、困惑した表情でもどってきて復命したのは、一夜明けた早朝のことだった。こういうことは苦手な男だが、他に任せられる者がいないのだ。 「勝手に、火がついたというのか」 「調べましたところ、藁の下から油幕が出てきました。先に調べた時には、倉庫がわりに廐を使うのはめずらしいことではないので、不審にも思わずにいたというのですが」 「——雨よけの油幕か」  大牙は、舌打ちをした。それでだいたいのところをのみこめたからだ。  油幕は、布に薬品を混ぜた油を塗ったものだ。食糧や武器の雨よけとして、大牙たちも使っているが、この雨の少ない土地で、しかも藁の上ならともかく下に、大量に積み重ねてあったというのだ。妙な話だと思うのは、大牙だけではないだろう。 「やりやがったな、あの——」  最後の罵声は、さすがに自粛したのだろう。だが、「あの」が誰をさすものか、冀小狛にも容易に見当はついた。が、火の原因の方は察しが悪い。 「どういう左道を用いれば、ああいうことになるのか、わかりかねるのですが」 「簡単な話だ。油幕に塗る油には、硝石《しょうせき》だのなんだのさまざまな薬が混ぜてある。そのせいで、積み重ねておくと、みずからの重みで熱が出ることがある。燃えやすい藁なんぞその上に置いておけば、火も出やすい。いや、他にも小細工のひとつふたつ、仕掛けていたんだろう。——あいつめ、尤家の荷を運んでいる頃に、覚えたにちがいない。よくも」 「困ったことになりましたな」  問題は、馬や人の被害ではない。兵たちの動揺が激しいのだと、冀小狛はいう。 「油幕が原因だと告げたところで、素直に信じますかどうか」 「すぐに庸関を出る」 「は?」 「〈乾〉伯たちを集めてくれ。あと一戦、一戦する。これ以上、あの漢の思いどおりになってたまるか。それに、このまま東へもどったら、もともと寄せ集めの国がいよいよまとまらなくなる。勝利の味をなんとしてでも味わわせて、凱旋《がいせん》という形式をとらせなければ——」  大牙は口をつぐんだが、冀小狛には声にならない声が聞こえていた。あるかなきかの北方諸国の結束は崩れ、〈奎〉は消滅し、一国一国、〈征〉か〈衛〉に滅ぼされるのを待つばかりとなるだろう。 「わかりました。すぐに、〈乾〉伯をお呼びします。同時に、出立の用意を命じてまいりましょう。今日のうちに、〈琅〉軍の所在を調べさせ、奴らが油断しているうちに攻めかけましょうぞ」 「頼む」  うなずいた大牙の顔は、しかし、浮かないままだったのだ。      (二)  大牙は知らないことだったが、その頃、羅旋もまた彼とそっくりの不機嫌な表情をしていたのだった。羅旋の不機嫌の原因は、 「減らないな」  思ったように、〈奎〉の兵力が減ってくれないことに、いらだっていたのである。  庸関から二舎ほど離れた地点に布《し》いた、仮の陣内である。早朝に、将が国主の天幕に呼び集められることは珍しいことではない。〈琅〉では、夜半に軍議が開かれ、深夜に行動を起こすこともあったから、すぐに将の顔はそろった。 「庸関あたりまでで、二万は脱落してくれると思ったんだが。〈貂〉伯が空手で追い返されたのが、ひびいているな。まったく、どいつが小細工をしてくれたのやら」  小細工をしたのはおたがいさまで、〈貂〉伯に、国もとの噂という形でゆさぶりをかけたのは羅旋自身なのである。それが、失敗したことに関しては、文句をいう筋合いではない。だが、まさか〈貂〉の国都にいる淑夜に、まんまとしてやられたとは、さすがの羅旋も思い至らず、首をひねっていたのである。 「〈奎〉に、それほどの知恵者が、まだいたとは思わなかった。——まずいな。このままでは、安邑を包囲されてしまう」 「しっかりせぬか、羅旋よ」  背中をどやしつけたのは五叟老人である。 「儂らは、どの国でも、どんな土地でも生きていけるが、そういうわけにもいかぬお人もおる。玉公主を——義京で玉と花とに囲まれていたお方を、これ以上の辺地で暮らさせるのはお気の毒じゃ」  玉公主とは、本名を揺珠《ようしゅ》。先代の〈琅〉公、藺孟琥《りんもうこ》の実の妹、現〈琅〉公、藺如白には姪にあたり、幼いころに〈魁〉の王太孫に嫁いだ。もちろん、形式だけのことである。成人する前に夫となるべき王太孫は亡くなり、〈魁〉の滅亡まで、老王のかたわらでひっそりと寡婦《かふ》の暮らしをしていた少女だった。 〈魁〉が滅んだ時、救い出されて〈琅〉にもどったのも束の間、頼りの兄は病死し、またひとりになってしまった。幸か不幸か、叔父にあたる如白には子がなく、彼女は〈琅〉公の義女として、安邑の城内深く、大切に扱われて過ごしている。だが、今でこそ平穏な日々を過ごしている彼女だが、〈琅〉が敗れれば、玉公主は安住の地を失うこととなる。  彼女ばかりではない。〈琅〉の民すべてが、流民となる。〈琅〉の民人の多くは、中原で暮らしてゆけず、逃れてきた者が多い。そういう意味で、玉公主は〈琅〉の民の象徴ともいえる存在であり、五叟老人も揺珠の名にかこつけて注意をうながしたのだった。 「揺珠ならば、あれでも藺家の女、戎族の血もひいている。天幕暮らしができないわけでもないが——」  答えたのは、如白である。天幕の一番奥に座し、ゆっくりと口を開いた。無意識のうちに手を添えたみごとな髯は、戎族の血を誇示するように赤みがかかっていた。この場にいる者の大半の顔にも、鬚が目立つようになっていた。ふだんは鼻の下程度に短く刈りこんで貯《たくわ》えている者が多いのだが、今は、口もとから顎《あご》にかけて、手入れの悪い無精鬚《ぶしょうひげ》が目立つ。戦場に鏡など持ってくるはずもなく、おのれの顔を見る余裕もないのである。  その鬚づらを見わたしながら、如白はことばを続けた。 「むしろ、私が危惧《きぐ》しているのは、あれの身柄が中原の国のどこかに渡って、利用されることなのだ」  先代の〈琅〉公と揺珠兄妹の生母は、〈魁〉の最後の王、衷王《ちゅうおう》の姪である。〈奎〉の段氏を除いて、今、中原でもっとも〈魁〉王家の血を濃く受け継いでいるのは、揺珠なのである。しかも、形式上だけのこととはいえ、王太孫の正妃だった身だ。継承が順当に行われていれば、衷王が崩御したあとは彼女の夫が即位していたはずであり、夫亡き後の後継者を指名する資格は、揺珠が持っていたはずだったのだ。いや、拡大解釈をすれば、今でも彼女が〈魁〉の王位の代理人だと主張することも、可能なのである。  正統、ということばにどれほどの価値があるのかと、藺如白は疑っている。戦に勝てる者が将軍として指揮をとるべきだし、国を守る器量を持つ者が王になるべきだ。だから、彼自身は薄幸の姪を利用することなど、思いもよらないが、〈魁〉滅亡後、王を僭称《せんしょう》している者たちにとって、玉公主が正統性のために都合のよい道具になり得ることも承知していた。 「揺珠ひとりのために戦をするわけではないが、あれが不幸になるようなことには、なって欲しくない。そのためには、敗れるわけにはいかんのだ」 「同感だな」  羅旋がうなずきながら、一同の顔を見回した。羊角の白い髯と、方子蘇《ほうしそ》の鋭い眼光とがうなずきかえす。だが、本来なら廉亜武《れんあぶ》の顔があるところには、うっそりと暗い表情が控えていた。 「壮棄才《そうきさい》、どうした」  如白が温厚な顔をむけたが、羅旋の謀士として茣原を預かっていた男は、暗い表情を改めなかった。もともとこういう顔つきだと知っているし、廉亜武と同様の無口だということも承知しているから、如白もあまり気にはとめなかったが、 「は——」  ちらりと上目がちに羅旋の顔をうかがって、口ごもったのが気になった。 「なにか、いいたそうだな。いうことがあれば、先に聞こう」 「後で、申しあげ、ます」  妙な息の切り方をして、またぴたりと口をつぐんでしまった。いったんは追及しようとした如白だが、羅旋が妙な顔つきをしているのに気づいて、またことばをのみこんだ。 「わかった。では、儂の話を先にしよう。この夜半に急に集まってもらったのは、今後の策を、いま一度検討しなおすことと、いまひとつ。〈征〉から、密使がまいっている」  しん、と天幕の内部の空気が静まった。驚いたのではない。この場にいる漢たちは、目の前の戦を戦いながら、各国の動きにも目を配れる器量は持ち合わせている。〈奎〉の後背を狙っている〈征〉の魚支吾が、〈琅〉と繋がりを持ちたがっているのは、とうから知れている。静かになったのは、次の如白のことばを待つためだった。 「——なんと申してまいりましたな?」  五叟老人が、余裕を含んだ声音で先をうながす。 「皆の予想のとおりだ。手助けは要らぬか。〈奎〉の——いや、〈容〉との国境を攻めかけてやろうかと」 「必要ないと、応えてやりなされ」  羊角将軍の声が、即座に応えた。 「しかし、羊将軍。もしも〈容〉が攻められれば、〈奎〉は確実に兵を退きます。我らにとっては、ありがたいことです」  生真面目な声は、やはり方子蘇。 「莫迦を申せ、子蘇。魚支吾めが〈容〉を攻めるのに、我らの了解を得る必要などない。勝手にやればよいものを、なんのために、わざわざ使者など送ってきたと思う。我らに頼まれたのだと天下にいいふらして、恩を押しつけるだけではない。うまくすれば、不義、卑怯という汚名まで押しつけてくる気だぞ」 「俺も、そう思う」  と、羅旋が低い声で、賛意を表す。 「しかし、羅旋。では、どうするのだ。このままの数の敵を、安邑まで引きいれてしまったら、確実に負けだぞ。それは、おぬしがさっき、口にしたばかりだ」 「負けるとはいっていないぞ。安邑を囲まれたらまずいといっただけだ」 「同じことではないか。ここから、〈容〉の兵二万だけでも引き上げさせる手が、他にあるか」 「——ないわけじゃないが」  と、羅旋はいったん如白の顔を見、壮棄才の顔に視線を移した。 「なんだ、羅旋」 「要は、連中の後方を攪乱《かくらん》すればいい話だ。とすれば、なにも〈征〉に頼むことはないし、大軍も必要ない。俺が行けばすむことだ」 「どういうことだ」 「戎族のやり方を真似る」 「戎族——? 略奪か」 「物が目当てじゃない。ただ、騎兵だけで小人数ずつ、二十人程度に分かれて、防備の手薄な小城か邑《むら》を襲う。戦に男手を取られて隙だらけだから、簡単だ。自分の家族や財産が危険にさらされているとなれば、士気も落ちるし、ひきかえそうという国主も出るだろう。もうすこし悪辣にやる気なら、ある一国だけには手を出さないでおくという手もあるな。俺たちと裏で気脈を通じているのではないかと、他の国主たちが疑いだせば、こっちのものだ」 「まったく、悪辣そのものじゃな」  羊角が、白い髯をしごきながらうなずいた。ことばは辛辣だが、態度は賛成にかたむいている。一方、方子蘇はきっぱりと眉をつりあげた。 「女|孩子《こども》を襲うのか。それは、非道だ」 「戦はもともと、非道なもののはずだぞ」  羅旋は、一言のもとにはねつけた。 「それとも、男なら殺してもよくて、女孩子はだめだとでも?」 「詭弁《きべん》を弄《ろう》するな。戦場では、殺さなければ殺されるのだぞ」 「では訊くが、戦場で殺す相手が、故国では一家の主かどうか、方将軍はいちいち確かめているのか」 「なにを、いきなり——」 「そいつを殺したあとの、妻子の暮らしのことを考えているのか。直接に手を下すのは非道だが、間接に殺すのはかまわんとでも?」 「…………」 「詭弁を弄しているのは、そちらだ。男も女もない。殺すのがいやなら、今からでも遅くはない。段大牙に降伏するか、どこか山奥にひっこむかだ。そうすれば敵を殺さずにすむし、味方が死ぬのには知らぬ顔ができる」 「やめんかい、羅旋。方将軍を追い詰めるものではないわい」  五叟老人が飄飄《ひょうひょう》とした口調で割ってはいらなければ、方子蘇は席を立っていただろう。 「問題は他にもあるぞ、羅旋」  羊角が天幕の天井をみあげながら、指摘したのは、方子蘇の孤立感を和らげるためだろう。 「どうやって、後方へ回る。〈琅〉軍は一処に集中しているし、〈琅〉国内は道などあってなきようなものだから、なんとでもなるが、〈衛〉はおぬしらを通さぬぞ。〈征〉も、さすがにおぬしらを堂々と通すような真似はするまい」 「だれが、堂々といくといった」 「しかし、〈衛〉が通れぬとなると、百花谷関《ひゃっかこくかん》から巨鹿関に抜けて、〈征〉を通り、〈容〉の東に出るしかあるまい」 「だから、戎族のやり方といっている。大軍で、戦車を使うなら街道しか使えないからそうなるだろうが、騎兵ばかり、十人二十人ずつなら、いくらでも抜け道を知っている。百花谷関を通る必要はないし、巨鹿関までいかなくても、北へ出る道はあるぞ」  関を通らず、小人数で移動するのは、商人たちが関で徴収される税を惜しんでやる方法だ。尤家の傭車を引き受けていた羅旋は、そういった抜け道を知り尽くしている。 「しかし——!」  方子蘇が、食い下がった。 「羅旋の下の騎兵を、連れていかれてしまうのは——困る、正直にいって。一兵でも惜しいときなのだ。それが、三千も減るとなったら」 「——本物の戎族ならいかがでしょう」  低い低い、地の底から響くような不明瞭な声だった。が、この場にいるのは皆、聴覚の鋭い者ぞろいである。内容も声の主も、はっきりと判別した。 「壮棄才、なんといった」 「本物の戎族の手を借りては、いかがかと、廉亜武将軍が」 「それは——」  顔を見合わせたのは、あまりに意外で可能性のなさそうな案だったからだ。  忌避する気はない。はっきり戎族と知れている羅旋はもちろん、如白も羊角も、戎族の血はひいているし、方子蘇にも偏見は少ない。だが、個人としては戎族と関わりの深い彼らも、国同士、勢力同士としての交渉はしたことがない。そもそも、戎族はいくつもの部に分かれていて、まとまって交渉に応じるということがなかったのだ。  自尊心の高い民だから、武力で屈服させないかぎり、服属することはない。その上、同じ民族の間でも熾烈《しれつ》な競争意識がはたらいている。  たとえばある部の族長と交渉して、代償をはらうかわりに略奪を禁じることに成功したとする。すると、別の部の族長がかならず現れ、より多い代償を要求してくるのだ。断れば、当然、侵入してくる。かといって応じれば、今度は前の部の族長が承知をしない。代償の増額を要求してきて、断れば略奪していく。〈琅〉も、軍を強化して対応はしてきたが、なにしろ二十人三十人の単位で動くものだから、どこに現れるか予測がつかず、しかも馬を自在にあやつる連中だから、足が早い。襲われたと報告をうけて兵を出しても、追いつけるものではない。  強悍《きょうかん》で、馴れるということの少ない民だと、如白たちはなかば自嘲気味に思っていた。彼ら戎族の誇り高さと勁《つよ》さと——中原に対する強烈な劣等感は、如白たちの内部にもたしかにあるものだったからだ。  その戎族を、彼の利益にもならない戦にひきずりこむなど不可能だと、最初から如白は計算に入れていなかった。廉亜武を西へ振り向けたのは、せいぜい〈奎〉との戦の間、侵入と略奪を控えさせられればという思惑からである。彼らをおとなしくさせておくための代償なら、多少高くついてもよい。あとは宰領に任せると、たしかに廉亜武には命じた。しかし、 「無理だろう」 「廉将軍は、すでに話をつけておいでで」  壮棄才のことばはひどく短かったが、意味はわかった。 「それは、越権行為ではないか」  苦情を申したてたのは、方子蘇である。戎族との交渉権は与えたが、味方につけろとは命じていないし、しかも今ごろになってこんなことをいい出されても驚くばかりだ。その点では、如白の方がさすがに懐が広い。 「いや、今はとがめだてしている時ではない、方子蘇。話を聞こうではないか、壮棄才。廉亜武の存念は、聞いているのだろう。どんな条件で戎族をひきいれた。第一、その、羅旋の件は——」  と、めずらしく羅旋の方をうかがった。どうやら、羅旋の内密の話を知っていて、それを気にかけたらしい。 「俺も聞きたい。どの部と交渉した?」  羅旋も、気のないふりをよそおいながら尋ねる。 「西方の蒼嶺部《そうれいぶ》と。最近、北と敵対しているそうで」  壮棄才の答えは、簡潔すぎて他の者には理解しにくい。だが、如白も羅旋も、そのことばであきらかに肩の荷をおろしたらしい。 「それで、条件は?」 「食料、ことに塩を」  塩はどの国でも貴重品だが、ことに海を持たず、岩塩の産出もない西の草原地帯では、黄金と同等の価値を持つ。西方へ入る商人——ことに玉石を扱う商人の中には、塩で決済をする者もいる。その塩を、今後、〈琅〉の責任で安定供給した上、扱う権利を独占させろというのである。 「それから、馬と人を貸すかわりに、後日、北を攻める時に手を貸してほしいと、これは羅旋に——」 「それは、この戦が一段落してからの話だ。それで、すぐに動けるのか蒼嶺部は」  羅旋が膝を乗り出した。すぐにでも戎族と合流しに行きかねないのを、方子蘇が止めて、 「待て、羅旋。主公はまだ、戎族を使うかどうか決めておられぬぞ。そもそも、交渉したのなら、なんで今まで黙っていた、壮棄才」 「できるなら、他者の手を借りずに戦に勝つ方がよいので」  情勢を見ていたのだという。 「では、おまえの一存か」 「廉将軍との合議の上。蒼嶺部の長も話は」 「承知している、か。そうか、〈征〉の力を借りるか、蒼嶺部と手を結ぶかの二者択一だな」  如白は、みずからの赤い鬚に手をやった。 「どう思う。意見を聞かせてくれ」 「俺は、はずしてもらおう」  真っ先に羅旋が、顔をそむけた。 「俺の気持ちは決まっている。だが、皆が反対するなら——それに従う」 「これは、目先のことを考えるべきではない。のちのち、どちらの方が信用ができ、こちらの利になるかですな」  羊角がうむと考えこむ。 「しかし、戎族の約定《やくじょう》が信用ができますか。今までのことを考えてみれば——」  だが、方子蘇のことばは自信なげで、 「では、〈征〉の魚支吾が戎族よりも信頼できるのかの?」  羊角に問われると、うなだれてしまった。 「魚支吾が狙っているのは、中原の覇権じゃ。その過程での方便としてなら、いくらでもこちらに有利な条件を提示してくるであろう。だが、他の邪魔者が滅んだのちまで、魚支吾が我らの存在を許すだろうか」 「…………」 「戎族との間には、今まで軋轢《あつれき》もあった。だが、西の情勢も一定ではないし、戎族の考え方も変化する。〈魁〉に戎族の将軍が仕えていたこともあったではないか。話しあい、利害を説けば、あらたな信頼を築くことも可能ではないか」 「儂もそう思う」  と、五叟老人が、低くつぶやいた。 「方子蘇、どう思う」  ゆっくりと、如白が尋ねた。 「今後、手を組むとしたら、どちらが与《くみ》しやすいか。どちらが〈琅〉のために——これから先の〈琅〉のためになるか」  十年先のことはわからない。だが、十年後、順当に生き延びることができていれば、方子蘇や羅旋がこの〈琅〉の中心とならねばならない。その時に、敵に回っているのはどちらか。手を結んでいられるのは、どちらだろう。 「戎族は、予測のつかぬことが多すぎます」  方子蘇は、生真面目な眉をきっぱりとあげた。 「ですが、魚支吾とは相並び立つことはできますまい。わかりました、戎族を」  如白がうなずくより前に、さっと長い影がこの場に投げかけられた。羅旋が勢いよく立ち上がったのである。 「羅旋——!」 「千騎だけ、連れていく」  その長身の影のような姿が、続けてのそりと立ち上がる。その壮棄才の、暗い顔に、 「百花谷関の手前で、五日後に合流したいと伝えてくれ」  命じた声は真剣だったが、なにか陽光が差しこんだような輝きと力とがあった。 「来なければ、俺たちだけで行く。——十日後に、〈容〉の国都を衝《つ》く。それまで、持ちこたえてくれ。できれば、なるべく西の方へひきつけておいてほしい。十日がんばってくれれば、勝機は必ず訪れる」  後半のせりふは、如白にむかって告げられたものだ。国主に対して命令口調は、この〈琅〉でも非礼に変わりない。だが誰も、方子蘇でさえとがめだてはしなかった。いまや〈琅〉の勝敗は、羅旋の行動|如何《いかん》にかかっているのだ。この場の主導権を、彼がとるのは必然だった。 「ああ、それから、この陣はすぐに移せ。大牙の奴が、すぐにでも攻め込んでくるぞ。多少、戦車の台数は減っているはずだが、まだまだあなどれん」 「それは、儂がなんとかしてみよう」  五叟老人が、悪戯っぽい目を光らせて羅旋を見上げた。 「もう、五里霧は通用せんぞ」 「わかっておるわい。今度は雷火かなにかを試してみよう。ただ、羅旋よ。殿下にもうかがいたいのだが、こうなると〈征〉の使者はどうするつもりだな? 拒絶の返事を持たせて帰してよいのか?」 「まずいな」  よいわけがない。〈征〉の意図が決して好意でないにしろ、せっかくの申し出を正面きって拒絶したとなれば、心証は悪くなる。もちろんこれは密約の部類だから、拒絶したからといってその非を〈征〉が鳴らすわけにはいかないが、のちのち、どんな口実に使われるかわからない。といって、使者を長く陣中にとどめておくわけにはいかない。ここが安邑ならともかく、戦の最中なのだ。逃げられでもしたら、また面倒だ。 「仕方がない。ついでに、俺が始末しておこう」 「羅旋!」 「戦の最中だ。巻きこまれて、不慮の死をとげる者もめずらしくない。それとも、ここまで来る途中で事故に遭うという方が、それらしいかな」  羅旋の緑色の眼が底光りするのを、一同、息を呑んで見守った。 「いや——〈琅〉公の義子のおまえが手を下すのは、まずかろう」 「五叟」  老人は、のろのろと腰をあげた。 「その点、儂は〈琅〉の民でも臣下でもない。好都合じゃ」  だが、 「先生」  壮棄才が、五叟老人の骨ばった肩を両手でおしかえしたのである。 「私が」 「——しかし」 「こういうことは、私の役目です」  遠慮なくのぞきこんでくる老人の視線を避けるように、壮棄才は暗い目を伏せた。だが、口調はきっぱりとしていて、翻意させるのは無理だとだれもが感じた。 「汚い仕事だぞ?」 「そのために、私がいるのです。このことは、皆、知らぬことに」  五叟老人は、許可を求めるよう如白と羅旋の顔を交互に見た。如白が、かすかにうなずくのを見て、 「十日後を待っていてくれ」  羅旋はするりと天幕から抜け出していった。長身のがっしりした身体つきからは想像もつかないような、敏捷な動きだった。壮棄才も、ためらわずにそのあとに続く。その後ろ姿を見送って、五叟老人がめずらしく深いため息をついた。 「——羅旋をかばうつもりだの、棄才」 「かばう?」 「羅旋の手を汚させたくないのじゃよ。——人の上に立つ者には、なるべく後ろ暗いところがない方がよい。戦場で正々堂々、おのれの生命を張って相手を斃《たお》すのと、裏で抹殺するのとは、やはりわけがちがうからの」 「そこまで——。五叟先生、以前から不思議に思っていたのだが」 「殿下」  小柄な身体を、ふたたび敷物の上に落ち着けながら、五叟老人は低く笑った。 「お尋ねになりたいのは、何故、棄才が羅旋に、そこまで忠誠を尽くすかということかと思うが」 「そうだ」 「堪忍してくだされ。それは、儂の口から話せることではないのでな。詳しい話は儂も知らぬし——さしつかえないことなら、尋ねられるまでもなく、羅旋から殿下に話しておりましょう。また、必要となれば、あちらから進んで話すと存じます」 「うむ——そうだな」 「信じてくだされ、赫羅旋という漢を。あれはいろいろと欠点も多いが、人の信頼はけっして裏切らぬ人間じゃ」      (三)  十日後、という羅旋の約束を、他の国の者が知っていたわけではない。その日が、〈坤《こん》〉の大地を根底からくつがえす運命の日となったのは、偶然の産物だった。  南呂《なんろ》(旧暦八月)五日、早朝、〈容〉の東端にあたる望津《ぼうしん》の塞の観楼子にのぼった夏子華は目をうたがった。 「——敵?」  とっさに、具体的なことばが思いうかばないほど驚愕《きょうがく》したのは、生まれて初めてのことだった。  雲霞《うんか》のごとき大軍、とはこういうことをいうのだろう。視線のとどくかぎり、目の下は黒い人と武器の光と旗と、砂埃で埋め尽くされていた。唯一の救いは、それがすべて川の対岸に在ったことだろう。  この川は、下流で〈坤〉随一の大河、瑶河《ようが》に流れこんでいる。支流とはいっても、大河のそれにふさわしい幅と深さと水量を持ち、簡単に渡れる川ではない。ただ、この塞がある望津という地点は少し川幅が広く川筋が直線である関係から、流れが他にくらべてゆるやかになっていた。旅人が〈容〉へ入るとしたら、かならずここで川を渡るという場所であったから、〈容〉も望津へ塞を築き、常に兵を駐留させてきたのだ。〈容〉に寄人となっていた頃の段大牙も、望津の守備を命じられたことがある。 〈奎〉および北方諸国の兵力のほとんどが西にむけられている今、望津を守るのは〈容〉の執政の夏子華の手勢一万のみ。少ないようだが、これでも非常事態ということで可能なかぎり、増やしたのである。通常は、千人か多くて二千人の兵、それに庶人が二千人ほど暮らす小塞である。  望津は渡河地として知られているが、他に比べてゆるやかというだけのことで、相当な急流には違いないのだ。敵が攻めてきたとしても、まず渡河に手間どるだろうし、その途中で確実に兵力を減らすはずだ。渡河の途中を塞の城壁や観楼子から狙い撃ちすれば、敵の半数を討つことも可能である。  条件にもよるが、五日から十日の間は、望津で敵をくいとめることができるといわれていた。五日もあれば、急使が〈容〉の国都に到達し、援軍を発することができる。望津は〈容〉にとっては最強の防衛線なのだった。もっとも、逆にいえば、望津を抜かれれば、あとは国都までさえぎるものはほとんどないということでもある。 「なんとしてでも、望津でくいとめなければ。しかし——」  夏子華が観楼子の上でうめいたのは、今回は、国都へ使者を送っても援軍はないことがわかっていたからだ。一万もあれば、望津は十分に守れると、過信しすぎていたのかもしれない。仮に攻められるとしても、せいぜい二、三万の兵力が来る程度だろうとたかをくくっていたのだ。〈征〉が動けば〈衛〉がかならず動くはずだし、それがわからない魚支吾でもないだろうから、そちらの防備にすくなからぬ兵力を割くだろう——だれもが、そう思った。〈衛〉を信用したわけではないが、〈衛〉の耿無影は、目の前の絶好の機会をみすみす無駄にするような漢ではないからだ。だが——。 「魚支吾は、自棄《やけ》になったらしい。それとも、勝算があるのか。いや、そんなことより」  対岸を埋める人の波を見やって、夏子華はあわただしくめぐらせた考えの断片を、口にした。あわてて出した物見の報告を、ざっと総合しただけでも五、六万。しかも、彼らもこうなっては敵地に深入りができず、調査の及ばない範囲にどれだけの兵が押し寄せているか推測ができないという。国のすぐに動員できる兵力のほとんどを挙げてきたといって、さしつかえないだろう。これで、後背を〈衛〉に衝かれたら——いや、魚支吾のことだ。きっと、手は打ってあるのだろう。だいたい、〈征〉のことなど心配してやる余裕はない。すぐに、迎撃の用意をしなくてはならない——。  夏子華は、武人ではない。策士という柄でもなく、人の上に立って命令するのにも慣れていない。そもそも、戦場の心得を知識として知ってはいても体得していないために、対応が後手に回ってしまった。これが大牙なら、斥候を〈征〉の領内深くまで出して、少なくとも二日前には敵の来襲を察知していただろう。  もっとも、知ったからといってどれほどの手が打てたかは疑問である。むしろ、武人ではない夏子華が度を失わずに、成すべきことはすべてしてのけたことを、この際は誉めるべきだろう。  彼は塞内の将兵をすべて招集し、城壁には屈強の射手を並べて渡河に備えた。こういう時のために、塞の城壁には投石機も備えつけられている。万が一のために、夏子華は石を相当数運びこませていた。川を渡るためには、舟もしくは筏《いかだ》が必要なわけで、その舟に投石機で石をぶつけて転覆させてしまえば敵は川を渡ってこられないというわけだ。  現に、さっそく渡河を開始した〈征〉軍の先鋒は、川の半ばもわたらないうちにさんざん石と矢を撃ちこまれ、ほぼ壊滅の状態となってしまった。川岸は一時、〈征〉軍の血とうめき声でいっぱいになったが、速い川の流れがすぐにおし流してしまう。だが。 「これでは、きりがない——」  悲鳴をあげたのは、塞内の兵士たちだった。 「まるで、川を川が渡っているようだ」  彼らのひとりがもらした感想を、夏子華は絶望の思いで聞いた。これ以上ないぐらい的確に、事実をあらわしていたからだ。先鋒はほとんど全滅の憂き目にあったが、〈征〉軍の進攻はまったく止まらなかったのだ。止めさせてもらえなかったという方が正しいかもしれない。うしろから詰めかける味方の軍に押し出され、兵卒らは前へ進むしかなかったのだ。 「まるで自殺じゃないか」  次々に川の中へ押し出されては、矢石の標的になり、水中に沈んでいく。  だが、同情している余裕はなかった。矢も石も、すべてが命中するわけでもない。こんなことを続けていれば、中には無事に渡りきる者も出てくる。ひとりふたりが、十人二十人となり、やがて千人二千人とならないでもない。 「撃て! 矢を途切れさせるな。石はよく狙いをつけて、撃つのだぞ」  観楼子の上から、夏子華は叫んだ。叫びながら、 (耿淑夜はどうしているだろう)  頭の隅で考えていた。 (淑夜なら。段大牙をあそこまで支えてきた策士なら、この窮地《きゅうち》、どう切り抜けただろう。今、彼がここにいたら)  だが、頭が良かろうが弁舌《べんぜつ》にすぐれていようが、どうにもならないことがある。何万といる大軍が尽きる前に、城内の矢も石も尽きてしまうはずだということ。この塞は、よく保《も》っても明後日には陥落するだろうということ。  この時点で、夏子華は覚悟を決めていた。 (かなわないまでも——ひとりでも〈征〉の兵を減らしてやる。それが、望津をあずかった者の役目。あとは——あとは淑夜と段大牙がなんとかしてくれるだろう)  長い、そして短い一日がまだ始まったばかりだった。  同日のことである。 「苳児、姫さま。どこへ、行く」  戎族の血をひく茱萸《しゅゆ》のことばは、ぎごちなく、礼儀を欠いていた。それをよく承知している苳児は、とがめだてはしなかったが、茱萸のさしだした手をきびしくはねのけた。 「止めないで。西へ行かなければならないの。叔父上さまか、淑夜さまのところへ行かねばならないのよ。茱萸、連れていってちょうだい」  少女ながら、きりりとした目もとで彼女は戎族の少女を見据えた。 「でも、何故《なぜ》。叱られる」 「こっそりと行くのです。ここにいては、危険なの。東の方から、なんだか黒いものが押し寄せてくるの」  当然のことながら、望津の変事はまだ、〈容〉の国都には伝わっていない。だから、危険といわれても、茱萸には理解ができなかった。  彼女が知っているのは、苳児と呼ばれるこの十歳の少女が、〈奎〉王の唯一の血縁者であり、まだ若い〈容〉伯の許婚者と定められていること。そのくせして、なかば人質のようなかたちで〈容〉に止めおかれていることだけだった。  耿淑夜が西へ出征していき、彼と尤家と両方からの指示をうけて、この少女に侍女として仕えることになった茱萸だが、すぐに周囲に監視の目が光っていることに気がついた。別に、なにといってとがめられることも邪魔をされることもないのだが、さりげない視線に遭って、苳児がふいと口をつぐんでしまうこともしばしばだった。  茱萸には、国の間、国主の一族の間にある複雑な取引はよく理解できない。だが、苳児を守りたいという気持ちだけは、しっかりと持っていた。  彼女は、尤家の女主人に救われたと思っている。故郷を離れ母を失い、親族だという人々の拒絶にあっている時にさらりと迎えいれてくれた尤暁華は、第二の母にも等しい存在だった。尤家の庇護下にあっても、〈衛〉で肩身の狭い思いをしていた彼女を、のびのびと暮らせる環境に送りこんでくれたのも暁華である。〈貂〉という国自体は、戎族の血を引く少女に冷淡だったが、耿淑夜とその麾下《きか》の若者たちは別だった。尤暁華が母なら、淑夜たちは茱萸にとっては兄とも思える存在だったのだ。その兄に依頼されたのが、この少女の護衛である。むろん、〈衛〉の尤家の承諾も得てあるという。ならば、身命を賭してでも、守り通さねばならない。物理的な危険はもちろんのこと、悪意や中傷からも。  苳児の力については、茱萸はまだよく知っていない。だから、少女が〈容〉を脱出しようとしたのを、遠回しな幽閉状態にがまんならなくなったのだと解釈した。いや、理由などどうでもよかったのかもしれない。茱萸にとって、苳児の意思は絶対に近かったのだ。 「わかった。西へ行けばいいね? だけど、今? どうやって?」  夜陰にまぎれるならともかく、日中、堂々と出ていけるはずがない。 「いいえ、日中だからこそ、だれも逃げるとは思わないでしょう。茱萸、そなたの馬に乗せておくれ。わたくしが、気晴らしに馬に乗りたいとせがんだことにするの。そして、城門から出ていくのですよ」  苳児は少女のくせに乗馬が好きで、淑夜が〈容〉にいたころ、超光に乗りたいといっては淑夜を困らせていた。根負けした淑夜が、鞍の前に乗せて遠乗りに出ていくのを、多くの人が見ている。茱萸が苳児を馬に乗せていたところで、またかと思う者の方が多いはずだ。 「食べ物も持たずに、遠くまで逃げる者はいません。何も持たず、ふだんの姿で出ていけば、とがめられることはないでしょう。心配いりません」  茱萸の顔をみあげて、にっこりと少女は笑った。 「それに、わたくしは、以前、淑夜に連れられて、おなじように何も持たずに、〈容〉から〈乾〉まで行ったことがあります。山中の野宿もできるし、山野の草や木の実を採って食べることもできます。泣き言はいわないし、足手まといにもなりません。ただ、西へ連れていってくれればよいのです」 「——わかった。馬を連れてくる」  苳児がここまで主張するのだ。きっとなにかあるのだろうと、茱萸は判断した。淑夜が兄なら、苳児は大切な妹だった。突然やってきた茱萸を疑いもせず、偏見もなく、侍女として全幅の信頼をよせてきた苳児に、応えてやりたいと思ったのである。  もちろん、苳児には驕慢《きょうまん》なところがあった。叔父、大牙も傅育《ふいく》役の淑夜も、段士羽の忘れ形見ということで、相当甘やかしたし、幼い時から人にかしずかれてばかりだったため、人に頭を下げるということを知らないのである。だが、少なくとも苳児は、この年齢で人物の能力を見抜く力があった。茱萸に逃亡をもちかけたのは、彼女が馬に乗れることだけが理由ではなかったはずだ。  茱萸の乗馬は、飛雪《ひせつ》と名がついていた。身体全体は平凡な栗毛で、白い斑点が散っているのだが、それが頭の方に特に集中しているのだ。頭から雪をかぶったようだというので、淑夜がつけた名だった。  本当はもっと特徴のない馬を選びたかったのだが、飛雪が一番足が速いのと、今日にかぎって馬を変えれば疑われる。また、長丁場になることを考えれば替え馬も連れていきたかったが、見とがめられる危険はおかせなかった。  ふたりは、飛雪の背に並んで乗り、談笑しながらわざとゆっくりと都城の門をくぐった。門衛は初老の兵士たちで、見慣れない者には厳しい目を配っていたが、馬の主が苳児だと知ると、すぐに注意を逸らしてしまった。変わり者の〈奎〉の姫は、たびたび城市の中へ出ていたから、顔を知っている者が多くいた。これがかえって幸いしたのだ。  知られていなければ、呼び止められて素姓を調べられることもあったかもしれない。それで少しでも不審に思われれば、そこでこの脱出劇は終わりとなっていた。屈強な兵士が皆、東西に出払っていたのも、苳児の狙い目だったようだ。逃亡が発覚したとしても、少女ひとりを追うために多くの人員を割くわけにはいかないはずだ——。  結果としては、苳児の読みのとおりとなったが、理由は大幅に異なっていたのである。  城門を出たのは、午後になってからだ。これもまた、疑われずに抜けるための細工である。 「追ってこないみたいだ」  茱萸が周囲の、ことに背後の気配をさぐって判断したのは、日暮れも近くなったころだった。人目を考慮して、いったん南下し、小邑をひとつとおりぬけてから西へ馬首を向けたから、距離はさほどかせげていない。だが、秋は陽が落ちるのが早い。うかうかしていたら、野宿の場所の確保もできなくなる。  茱萸は、街道から逸れて疎林《そりん》の中へ馬を乗り入れた。夜とはいえ、近在の者が通るかもしれない道筋からは、なるべく離れていた方がいい。  飛雪をゆるやかに歩ませながら、茱萸は雨露《あめつゆ》のしのげそうな場所を物色していた。そのせいで、注意力が散漫になっていたのだろう。暮れなずみかけた林の木々のむこうに、馬と人の影が立ったと見えた時には、遅かった。ふたりの周囲は、三十人ほどの人影にぐるりととり囲まれていたのである。 「——誰?」  周辺に住む庶人ではないことは、たしかだった。中原の人間は馬には乗らないが、周囲の気配は皆、騎馬だったからだ。ふだんの茱萸なら馬の足音ぐらいは気づいたはずだが、日のあるうちから風が出ており、梢《こずえ》の鳴る音で気配はすべて、かき消されていたのだ。 「誰だ」 「おまえ——戎族か」  正面に立つ人物から無造作なことばが飛んできたのに、茱萸はたじろいだ。日が落ちた林の中はもう薄暗く、茱萸の方から人の形は見えても顔までは判別できない。姿かたちから、茱萸を戎族と見破るのは無理なはずだった。 「それに、女ふたり、こんなところで何をしている。どうやら、身分のある者らしいが」 「おまえこそ、名と身分を——」  茱萸は、相手を〈容〉の追っ手だと直感していた。だから、相手によっては、説得するかひたすら逃げるか、それともかなわぬまでも鞍に隠し持った小剣で囲みを切り開くか、無理は承知でとにかく試みてみようと考えたのだ。だが、 「茱萸、待ちなさい」  苳児の方が冷静だったようだ。鞍の前に腰かけたまま、前方の薄闇をすかすように見ていたが、 「そなた、もしや」  声をかけた。細い、稚《おさな》い声だが、なんとはない確信と威厳が備わっていた。 「もしや、赫羅旋ではありませんか」 「なに——?」  一瞬、包囲の人々の間に電光のような緊張が走った。 「その名を、何故。おまえは、誰だ」  正面の影が、馬を二、三歩進ませた。乗馬は、見事な黒馬だった。黒を通りこして青みを帯びた毛並みに、額《ひたい》の部分にだけ細く斜めに純白の毛が混じり、まるで三日月を戴《いただ》いているようだった。馬上の人間もまた、堂々とした体格の漢であることを、茱萸は見てとった。戎族特有の鋭い容貌の中に、緑色の双眸《そうぼう》が奇妙な光り方をしている。それを苳児も指さして、 「その眼です。夜光眼でしょう。わたくしたちの姿がこの暗さの中ではっきりと見えるのは、赫羅旋の夜光眼以外にないはずです。父さまや叔父さまから、聞きました」 「——御身《おんみ》は?」  相手の口調が、改まった。 「わたくしは苳児——」 「姫さま、いけない!」  追っ手ではないようだが、正体も知れない相手に、不用意に名乗ってよい名ではない。だが、苳児は小さな身体をしゃんと伸ばして、 「段士羽の娘です」  堂々と告げてのけたのである。 「姫さま!」 「士羽の娘——?」  相手の声音が一変した。黒馬が、茱萸たちの馬の隣にぴたりと並んだ。馬の背丈がまったく違うのに、茱萸は驚いた。西方の馬が中原よりひと回り大きいのは知っているが、この黒馬はそれ以上だ。その上に、羅旋と呼ばれた漢の長身が乗っている。頭上からのぞきこまれ、思わず茱萸は苳児を抱きかかえて、身体を引いた。 「なるほど、面影があるようだ。〈奎〉の忘れ形見の姫の話は聞いている。御身が段苳児だとして、段家の姫がこんなところで、戎族の女となにをしている」 「この者は、茱萸。尤家から遣わされてきた侍女です」 「尤——暁華か」 「ええ。わたくしたちは〈容〉から逃がれてきました。〈容〉は、すぐに滅びます。その前に、叔父さまか淑夜のところへ行くつもりでした。赫羅旋——」  と、苳児は逆に、恐れ気もなく漢にむかって両腕をさし伸べたのである。茱萸が懸命に押さえたが、無駄だった。漢が片腕を伸ばし、無造作に少女の身柄を抱きとってしまったのだ。 「わたくしを連れていきなさい」 「姫さま、苳児さま!」  羅旋にあらがおうとした茱萸と、羅旋の馬との間に、もう一頭、割りこんできた。長身の若者だが、これは中原の人間らしい。それへ、茱萸は素手でつかみかかる。若者の方も応じて、剣を抜こうとするのを、 「やめろ、徐夫余」  羅旋がびしりと制した。苳児も、平気な顔をして、 「心配は要りません、茱萸。この人は、叔父さまの旧《ふる》い知人です。きっと、叔父さまのところへ、連れていってくれるはずです」 「——困ったな」  と、漢は苦笑をもらした。 「俺は、御身の叔父上と戦をしている身だぞ。聞いていないのか」 「聞いています」  苳児は、あっさりと応えた。敵の手に落ちたのだということがわかっていないようすに、輪をせばめてきた男たちがざわめいた。そういえば、西の戦のことを少しでも承知しているなら、赫羅旋が〈容〉国内に忽然《こつぜん》と現れるはずなどないのに、この少女はまるで予想でもしていたように、ためらわずに羅旋の名を呼んだ。これはどういうことだ——と。 「あなたが敵将だということも、〈容〉を攻めるためにここにいることも、わたくしにはわかっています。でも、〈容〉を滅ぼすのはあなたではありません。東から来るものです。それを、わたくしは叔父さまに知らせなければならないのです。叔父さまと戦をしているなら、叔父さまと遭うことになるはず。わたくしを、連れていってください」  まだ稚い少女の大胆なせりふに、一同は声もない。まして、予言めいた彼女のことばは、暗い林の中で聞くと不気味で、にわかには信じがたかった。しばしの沈黙のあと、 「いいだろう」  羅旋は、無造作に腕の中の少女にうなずいた。 「羅旋!」  闇の中から進み出てきたのは、似たような黒馬に乗った、これまた長身の漢だった。茱萸の暗闇に慣れた眼が、おのれと同族の容貌を見てとった。 「——戎族?」 「蒼嶺部の長だ。名を左車《さしゃ》という」 [#挿絵(img/05_153.png)入る]  ふりあおいだ苳児に、羅旋はていねいに紹介した。長というには若い顔だった。おそらく、羅旋よりも二、三歳年下だろう。年齢故だろうか、短気そうな表情をして、 「名などどうでもよい。羅旋、我らは戦に来たのだ。人質にはうってつけの娘だが、足手まといになる。放り出していくか、それともいっそ——」 「まあ、待て。苳児どの、〈容〉が滅びるといったな」 「孩子《こども》のいいぐさを本気にして——」 「待てといったぞ、左車。聞いたことがある。〈奎〉の姫は、時おり神がかりのようなことを口にする、予言の才があるらしいと、な。それに——俺は段士羽には負債がある」 「負債?」 「信頼に応えられなかった——いや、それは今はどうでもいい。東から来るといったな、苳児どの」 「ええ、黒いものが来ます。すぐに、ここへも」 「わかった。では、〈容〉は我々がわざわざ手をくだすまでもない。このまま、〈貂〉へ向かおう」 「〈貂〉?」 「耿淑夜がいるところだ。それでよかろう、苳児どの」 「ええ、けっこうです」  満足そうに苳児はうなずくと、羅旋の腕の中に小さな身体を落ち着けてしまった。 「苳児さま、姫さま——」 「心配いらない、茱萸。羅旋は、信頼できる人です。約束したことは守る人だと、父さまがおっしゃっていました。だから、任せていいのですよ」 「そうだな——今度こそ守らねばな、苳児どの。茱萸といったな」 「ああ」 「一緒に来るか、それともここから、ひとりで尤家へ戻るか。戻るなら、暁華に手紙を書いて事情を説明してやるが」 「——行く」  茱萸には、なにもかもわからないことだらけだった。これが話に聞く赫羅旋だとしたら、敵の大将ではないか。それがこんなところで、しかもこんな少数で、戎族の長と一緒に何をしているのだろう。苳児の亡父の名を出したら、何故、態度が変わったのだろう。尤夫人の名を呼び捨てにして、この漢はどういう関わりがあるのだろう。これから〈容〉は、そして自分たちはどうなるのだろう。  だが、苳児の落ち着きはらったようすを見て、彼女は心を決めた。すくなくとも、すぐに殺されるようなことはあるまい。屈強の漢たちと一緒なら、道中、かえって安全というものだ。不都合なことになったら、その時のこと。苳児を連れて、また逃げればよいのだ。逃げなければならない時期は、苳児自身が告げてくるだろう。  茱萸がうなずくと、羅旋は無造作に命じた。 「行くぞ」  たったひとことで、周囲の漢たちがいっせいに動いた。どこへという指示もなく、この闇、この時間だというのに漢たちは何も訊かず、馬首をめぐらした羅旋の後に続いたのである。  同日、少し時間はさかのぼる。 〈征〉の新都の、城壁を固める衛士が、南東の方向に砂塵が舞い上がるのを認めた。  その報告をうけた漆離伯要《しつりはくよう》は、ただちに臨戦態勢を整えた。いや、準備ならば十日以上も前からととのっており、いつ、やってくるかと待ちかまえていたのだ。 「遅いぐらいだ」  慣れない甲冑《かっちゅう》を身につけながら、彼はせせら笑った。 「準備はよいな」 「はい、夫子《ふうし》」  手伝っていた少年が、そういって頭を深く下げた。夫子とは教師の尊称であるが、そのあたりの孩子《こども》相手の教師をこう呼ぶことはない。相当な学識を持ち、一国の師として迎えられた、いわば一国の御用学者をそう呼ぶという暗黙裡の習慣があった。たとえば〈魁〉の左丘泰《さきゅうたい》という礼学の老学者が、左夫子と呼ばれていた。彼は〈魁〉王の師であり、弟子孫弟子は、合わせて数百人を越えていた。耿淑夜もこの左夫子の孫弟子のひとりだったことがあるし、漆離伯要自身もまた、弟子の末席に名を連ねていたことがあったのだった。ただし——。 「あんな古い学問は、もう役にたたない」  いい放って飛び出し、〈征〉へ向かった。〈魁〉が滅ぶ五年も前のことで、したがって淑夜とは面識はない。もっとも同時期に〈魁〉の義京にいたとしても、知り合う機会はなかっただろう。  左夫子は〈魁〉が滅んだ後〈衛〉に移ったが、落胆が激しく、ほどなく亡くなったという。礼学の学徒たちも、散り散りになった。身を守る腕力のない者たちが多く、戦乱の中で死んでいった者も少なくない。だから、漆離伯要がこの若さで尊称をおのれの弟子に呼ばせていても、それを僭越《せんえつ》だと責める者もなかったのである。  この新都は建設中ではあるが、城市としての機能はほぼ整いかけていた。住人も、建設のための人夫たちのみではない。太学の学生や伯要の私塾の学徒たちがおり、彼らの生活に必要な物を扱う商人たちの住まいも、定まりかけていた。そして、城壁の外観が整っていくのに応じて、常駐する守備兵の数も増えている。現在、新都の城内に家を割りあてられている兵は、二千強。それに伯要が今回、八千の兵を臨城《りんじょう》から連れてきた。その上に、漆離伯要には、勝算があった。 「相手は、あの耿無影。だとすれば、一戦もせずに退かせることができるかもしれない」  一万の兵は、外部にむかっての威嚇と、〈征〉国内——ことに、魚支吾に対しておのれの功績を大きく見せるための、装飾のつもりだった。 「〈衛〉の旗を確認いたしました」 「城門は閉め、兵の配置も終わりました」  次々もたらされる報告にうなずきながら、 「相手が仕掛けてくるまでは、こちらから攻めるな。十日、いや、三日もあれば決着はつくだろう」  その顔をおおうのは、魚支吾の前では決して見せたことのない不遜《ふそん》な表情だったのである。 [#改ページ]  第四章————————夢の行く果て      (一)  ひとくちに戎族《じゅうぞく》というが、その内部にはいくつもの部が存在する。質楽《しつら》部、亀珥《きじ》部、蒼嶺《そうれい》部等々。その名のほとんどは地名に由来し、戎族の発音を文字に写したもので、文字自体に意味がないのは羅旋《らせん》や左車《さしゃ》の名と同様である。そのうち、蒼嶺部は〈琅《ろう》〉の西に接したあたりを主な生活地域としているはずだった。中原の国とは険悪ではないが、決して関係の良好な部とはいえなかったはずだ。それが突然、〈琅〉に協力的になったのは、 「代が替わったのが原因だ」 〈容《よう》〉から西へ向かう旅の間に、羅旋が苳児《とうじ》へぽつりぽつりと語ったところによると、 「去年、蒼嶺部の長が死んで、末子の左車が後を継いだ。ところが、それに不満な族長どもが、ごっそりと離れていってしまった」  部の下には、族という単位がある。血縁を重視した、大家族の単位である。いくつかの族が手を結びあって、部になるのだが、これは固定化されたものではない。所属する部の長の力が弱ければ、族単位で独立してしまうことは珍しくないし、他の部へ移ることもある。左車が族長たちに背かれたのは、 「若すぎる」  せいだった。  戎族の長の資格はただひとつ、その麾下《きか》に入って食べていけるか否か、だけだ。そして、左車は器量不足だと思われたのだ。  弱小勢力となった蒼嶺部に、狙いをつけて接触したのが〈琅〉の廉亜武《れんあぶ》である。戎族の妻を持つ廉亜武は、戎族の気質を知っている。その上、左車が何を必要としているかを知り抜いて、〈琅〉との協調を持ちかけたのだ。互いに不可侵、戦の場合は互いに兵を貸す。その上に、〈琅〉を通過する塩の独占権を蒼嶺部に与える、そうすれば、蒼嶺部は他の戎族よりも優位に立てると、廉亜武は説いた。金銀や物など、形のある報酬は一時的なものだし、他の部に力ずくで奪われることもある。だが、目に見えない権利ならば——。  旧《ふる》い考えの持ち主ならば、拒絶されていただろう。だが、左車が族長たちに敬遠された原因のひとつは、野心的であり革新的だという点だったのだ。  結果、左車は三百騎を率いて、羅旋が指定した合流地点に現れたのだった。  羅旋が乗っている黒馬は、その時、左車が連れてきたものである。 「月芽《げつが》という」  ちなみに、月芽とは三日月のことである。額の白い毛を月に例えての命名だ。左車の替え馬三頭のうちの一頭だったのだが、羅旋の乗る|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》が疲れているのを見てとるや、 「やる」  あっさりと譲ったのは、どうやらひと目で羅旋に心服したためのようだった。その証拠には、三百騎の部下たちを小人数に分け、合流する場所と日時を細かく指示したあと、みずからは十騎だけを連れて羅旋に従った。干渉をきらう戎族の、しかも長の立場にある者にしては、希有《けう》の行動といっていい。 「おかげで、俺はたすかっているが。俺の勘《かん》も、だいぶ鈍っているものでな」  苦笑気味の表情を、苳児のそばから片時も離れない茱萸《しゅゆ》に向けたのは、〈貂《ちょう》〉の国都を目の前にした夜だった。〈容〉を出てから、十日ほどが経っている。  もちろん、ここまでまっすぐに来たわけではない。各国を結ぶ街道を左右に選択し、時には引き返し、他の騎馬の一団と合流してはまた離れる。茱萸の目には、さっぱりその意図がわからなかった。いくら主力の軍が不在だとはいえ、ここは彼らにとっては敵地なのだ。少ないとはいえ、留守を守る兵もいる。彼らに追跡されたことも、一、二度あったが、羅旋たちは敢《あ》えて戦わず、そのくせ振り切ったとみるや、わざと再び、人目につくところを移動してみせるのだ。  ちなみに、追っ手は徒歩か戦車ばかりで、身軽な騎馬に追いつける者は皆無だった。  これは、茱萸が後に知ったことだが、この時、羅旋は自分の麾下に本格的な略奪を禁じていた。自分の部下ばかりではない、左車の連れてきた戎族たちにも、禁じたのである。 「食料や必要なもの以外は、奪うな。抵抗しない者は殺すな。奪うのが目的じゃない、自国が危ないと国主たちにわからせるためだ」  これを〈琅〉の方子蘇《ほうしそ》将軍が聞いたら、怒ったかもしれない。人をやりこめておいて、結局、なんだといったかもしれない。だが、羅旋も命じはしたが、完全に守られるとは思っていなかったのだ。ことに戎族の男たちに、こんなことを命じても無理な話だが、少しでも被害が軽減できれば、という程度だったという。 「——〈征《せい》〉が、こう早く乗り出してくると知っていたら、来る必要はなかったぐらいだ。これ以上、俺たちが憎まれ役になることはない。とにかく、人はなるだけ殺すな。生かしておけば、いずれ、こちらの兵として使うことだってできるようになるかもしれんからな」  この、人をくった話が、北方の諸国全体に散った配下たちに、どう伝わったか茱萸には想像もつかない。接触しては離れていく男たちが確実に、それを他の一団に伝えたのだろう。そして結果からいえば、戎族たちもふくめてほぼ全員が、そのことばにおおむね従ったのだった。 「左車の手柄だ」  と、羅旋は評した。左車のもとに残った三百人の男たちは、数こそ少ないが、旧来の戎族のやり方に批判的で、左車の考えに共鳴した者たちばかりだった。殺したり奪ったり目前の利益に飛びつくのではなく、頭を使い長い目で自分たちの存在を確かなものにしたいと、彼らは思っていたのだ。中原《ちゅうげん》の国々に侮《あなど》られないためには、略奪ばかりしていてはだめだ。対等の立場で交渉ができる、強固な国が必要だという考えが、彼らの中に浸透していた。  その彼らに羅旋は、〈琅〉国としての約束とは別に、報酬を約束した。危険な真似もせずにすむし、立場としては〈琅〉一国と蒼嶺部は対等、その上に利益があるのだから、誰もが納得をし喜んで従える。つまり、彼らの理想と現実とを、上手に合致させたのである。  また、襲われる方も、要求されるものさえ差し出せば命は助かると知ると、抵抗しなくなるものだ。羅旋たちにしてみれば、後方攪乱をするなら他の邑《むら》や城市《まち》に急報がいく方がいいのだから、農民たちを生かしておく方が好都合だった。  この道理を、羅旋は少しずつ苳児に語って聞かせた。十歳やそこらの少女に、こんなことを話しても理解できるまいと周囲は思っていたし、そばで聞いている茱萸にもわからないことが多かった。だが、 「羅旋が暴れているという噂が広まれば、叔父さまが西からもどって来ると思ったのですね」  苳児は、要点をしっかりと把握した。苳児は不思議なぐらい羅旋になついてしまい、移動の時も茱萸の馬ではなく月芽に乗せられていくほどである。野営の時も苳児の方が羅旋から離れず、彼の膝の上で安心したように眠りに落ちる。羅旋もうるさがりもせず、苳児の相手をしながら、左車たちに指示を出す。そして苳児が眠ってしまうと、茱萸に渡してくれるのだった。 「だが、〈征《せい》〉が来てしまった。俺の出番はなくなったな。望津《ぼうしん》が落ちたという噂も、耳にした。もうすぐ、このあたりにも〈征〉が雪崩《なだ》れこんでくるかもしれん」 「いいえ、ここまでは来ないと思います」  苳児がきっぱりと首を振ると、 「そうか、では、〈貂〉は自力で攻めなけりゃならんか」  羅旋は苦笑した。  この地点、この日に合流すると決めてあったのだろう。これまでつかず離れずに来た騎兵たちが、この日の昼、いっせいに羅旋の目の前に現れたのである。その数、約一千騎。中に左車の部下たちも混じっているから、本来なら総数はもっとあるはずだが、遅れたのだろう。羅旋はそれをとがめず、待ちもせず、 「明日、〈貂〉の国都を攻める」  集まってきた者たちに告げたのだった。ただし、それで特別な準備にかかるでもない。皆、いつものような顔をして、それぞれ野営の準備にかかっただけだった。 「戦になるなら、せめて、苳児さまを、戦の見えないところへ」  茱萸が、抗議したのも当然である。だが、 「戦には、ならないと思います」  また、苳児が首を振ったのだ。 「淑夜は、無益な戦はしません。きっと西へ逃げるでしょう。戦の指揮を執る者がなければ、戦になりません」 「それは、確かじゃない」  淑夜が逃げたとしても、今、国都には国主の〈貂〉伯、夏子由《かしゆ》がいるという。一国の国主が、おのれの国都を戦わずして開城するとは思えない。  根拠がないと茱萸がいうと、 「でも、そうなるのですよ。ねえ、羅旋。これが、天命なのですもの」 「天命?」  聞き返す茱萸に、めずらしく羅旋は太い眉を寄せた。 「そんなことは知らん。だが、望津の陥落を淑夜が知っていれば、きっと大牙と合流して巻き返しを計るだろう。そこが、俺のねらい目でもある。さて、奴の手もとにどの程度の報告がいっているか。うまく、全部伝わっていれば——俺ならば逃げるな」 「羅旋、見て」  苳児は、小さな手で北天の夜空をさし示した。 「ほうき星の前に、ちいさな星がひとつ光っているわ。まるで、呑みこもうとしているみたい」  羅旋の予測は当っていた。  淑夜は同じころ、国都を脱出する準備にかかっていたのだった。 「遅すぎる——」  と、淑夜はくちびるをきつく噛んでいた。今日、ようやく、望津の戦の報告をうけとったのだ。事態が最悪の方向に転がったことを、それで淑夜はさとった。  羅旋たちの跳梁《ちょうりょう》は、もちろん、淑夜の耳に入っていた。羅旋の意図は、すぐにわかった。後方で攪乱をはかるのみで、被害——ことに人的な被害が少ないことを、自分の配下の騎馬兵たちの報告で知った淑夜は、敢えて大牙《たいが》には自重するよう、申し送っていた。 「これは、国主方を不安に陥れ、退《ひ》かせるための示威です。くれぐれも、踊らされぬよう。あちこちに出没して、数を多く見せていますが、実態は千騎かそこらでしょう。主力の〈琅〉軍が壊滅すれば、彼らは敵地にて少数で孤立しますから、恐るるに足りません」  そのあたりまでは、淑夜も正確に事態を把握しており、淑夜が各国に撒《ま》いた配下たちも、早馬の機能を果たしていた。だが、思ってもみない事態がおきた。羅旋たちの動きによって、使者の往来が途切れたのである。邑々が襲われているという報が広まると、人々はしっかりとした城壁を持つ城市へ逃げこみ、城門を堅く閉ざしたのだ。  羅旋たちは、そういった守りの堅い城市には基本的に手をつけなかったのだが、内にたてこもった人々は恐怖心にかられ、安全とわかっていても城門を開けようとしなくなった。結果、騎兵たちの多くが城市の内部に閉じこめられたかたちとなり、望津の戦の詳細が〈貂〉に届くのが遅れてしまったのだった。こんな時に頼りになる野狗《やく》が、大牙との連絡にかかりきりになったのもまずかった。〈衛《えい》〉の存在に、頼りすぎたのかもしれない。〈衛〉の動きをにらんで〈征〉が自制すると、決めこんでしまった。それが、失敗だった。  ようやく淑夜のもとにもたらされた望津の報告は、かなり詳細なものだった。 「夏子華《かしか》どのが——」  一読したとたん、淑夜は絶句した。  夏子華は、押し寄せる〈征〉の兵にひとりでたちむかい、壮絶な斬り死にを遂げたのだった。渡河中と、塞の城壁に取りついて以降とで、〈征〉は万を越す数を失ったという。城壁からは石と、一部、煮えたぎった油とを降らせ、すさまじい抵抗を示したともいう。一時は城壁の裾《すそ》に死骸の山を築きさえしたのだが、結局、数をたよりにただ攻めよせてくる〈征〉軍の前には、有効な策もとれなかった。力押しをやはり力で受けとめてしまった結果、双方とも甚大な被害を出し、〈征〉兵の恨みを一身に浴びたかたちで、夏子華は戦死したのだった。全身、斬りさいなまれて、顔も手足も判別できないほどだったと、書簡は告げていた。  淑夜は、書簡をにぎりしめたまま、しばらくは涙も出なかった。書簡を持ってきた野狗も、神妙な顔をして彼を見守っていた。  本来なら、〈容〉の国主の館の隅で、文字を書いておだやかに一生を終えるはずの人物だった。淑夜が、大牙を〈容〉の執政《しっせい》にしようとしなければ、きっと一生そのままだったろう。自身の野心故にではなく、〈容〉の将来のために夏子華は大牙を選び、〈容〉の臣下たちの総意をまとめあげたのだ。大牙がいなければ、夏子華も望津の守備につくようなことはなかったし、こんな死に方をすることもなかったと思うと、淑夜は自分で手を下したような気がしたのだ。いや、実際、彼が殺したのに違いない。もうすこし、しっかりと情勢を把握していたら、東にも目を配っていたら、淑夜も望津でともに戦っていたら——。  淑夜は自分の記憶力が、これほどうらめしいと思ったことはなかった。夏子華の最期を記した文章が、頭にこびりついて離れなかった。いくら忘れようとしても、一字一句、まちがいなく思いうかんでしまうのだ。  さらにその書簡には、守りを失った〈容〉の国都が、抵抗らしい抵抗もせずに開城したこと、その直前に、苳児が茱萸とともに行方不明になったことも書き添えてあった。ちなみにこれを寄越《よこ》したのは、今は〈乾《けん》〉の国都にいる、尤家《ゆうけ》の差配、季《き》老人である。いや、おそらくこれを送ったあと、老人も〈乾〉を脱出しているだろう。 「これ以上、〈貂〉にいても無駄だ」  淑夜は判断した。  後背の防備を固めるつもりで、〈貂〉にもどったつもりだった。羅旋の攪乱ぐらいは、押さえこんでみせるつもりだった。だが、こうなった今、ここにいても意味がない。一刻も早く大牙に合流し、手勢をまとめて、態勢を立て直さなければならない。 〈容〉が〈征〉に占拠された今、他の国主たちがどう出るか、淑夜には予測がつかなかった。大牙を助けて〈容〉の奪回に協力するか、それとも、大牙を見捨てて自国の安全を守ろうとするか。  後者となった場合、どれだけの兵力が大牙の手元に残るだろう。またそうなった時、どこへいけば安全なのだろう。だが、とにかく、行かなければ何も始まらない、終わりもしない。身辺の物には、ほとんど手をつけず、杖だけを持って淑夜は立ち上がった。 「逃げるかい? 羅旋の奴は、すぐそこまで来ているはずだ。野営の光が、ちらちら見えていた。奴が来ていたら、逃げ切れるもんじゃねえ」 「ここでじっとしていても、おなじことですよ」 「だが、逃げるといってすんなり城門を開けてくれるかい。おいらなら、いくらでも逃げ路はあるが。馬を捨てていくつもりは、ないんだろうが」 「でも、私は超光《ちょうこう》がいなければ、どうにもならないですから」  左脚をひきずり杖にすがりながら、一日にいける距離はしれている。あっという間に追いつかれるだろう。 「羅旋にじゃない。〈貂〉の留守兵にです」  淑夜はあくまで、大牙からの預かり物——逆にいえば人質なのだ。大牙に対しての人質の意味ももちろんあるが、たとえば大牙が敗れ、他の国に庇護《ひご》を求めなければならなくなった時に、淑夜は取引材料に十分になる。なにしろ、彼にはまだ五城の値うちがあるのだ。特に〈衛〉あたりと手を結ぶ気なら、これ以上の人質はない。しかも、今は〈貂〉伯自身が、兵だけ体よく取り上げられて、国都にもどってきている。当然、淑夜の身辺にも超光の廐《うまや》にも、〈貂〉の人間の監視の目が光っていた。  ただ、淑夜の側にも今は野狗がいる。夜陰にまぎれて淑夜ひとりを住まいから連れ出し、超光を廐から引き出すのに、さほど手間はかからなかった。  淑夜の手もとには、今、二十人ほどの騎兵が残っている。淑夜には厳しい監視の目も、この若者たちにはそれほどでもない。しょせん、身分も名もない庶民の子らだし、彼らの早馬が大切な情報をもたらしてくれることも承知している。夜分に急使として出ていくことも、今までになかったことではないから、彼らのために城門を開かせることは可能だった。  口実など、いくらでも作れる。西と北の門のひとつずつが、偽の命令で簡単に開いた。  問題は、淑夜だった。配下たちの間に紛れるのはよいが、顔を改められればわかってしまう。騅《あしげ》の超光も特に目立つし、門衛たちも色の違うひときわ立派な馬には目を光らせているはずだ——。 「〈乾〉への急使だ」  その夜半、そう名乗って北の門の内へ集まった十騎ほどの中に、変わった毛色の馬はいなかった。騎《の》り手は夜道を照らすために炬火《たいまつ》を持っており、顔ははっきり見えていたし、その上に念をいれてひとりひとり確かめたが、中に耿淑夜のおとなしそうな顔はなかった。 「よし、行け」  と、重い城門が細く開かれ、先頭の馬が出て行こうとした時だった。  背後の道の闇から重い蹄《ひづめ》の音と、「馬泥棒!」という厳しい声とが聞こえたかと思うと、白い馬がさっと燎火《かがりび》の中に飛びこんできた。鞍《くら》も鐙《あぶみ》もない背には、小柄な人影が、蜘蛛《くも》のようにしがみついている。 「超光!」  はっとする間の一瞬にもう、馬は人ひとり通れるほどの門の隙間から、するりと外へ出ている。名前どおり、光かなにかのような速さだった。後から追ってきたのは平凡な栗毛で、その背に乗っているのは、 「淑夜さま!」  急使に出る若者たちが、声をあげた。 「追え、超光を追え!」  だれが叫んだ声かわからないが、それにその場の全員がつられたことは確かだった。外へ雪崩れ出たのは、騎馬の連中だけではない。門衛たちの中にも、徒歩で走り出た者がかなりいた。とっさに門を閉めようと思った者もいたかもしれないが、どっと出ていく人の流れに逆に門はわずかながら開き、騎兵たちの間にはさまれるようにして、淑夜もまんまと外へ出ることができたのだった。 「どっちへ?」  徒歩の門衛たちをふりきるのは、たやすいことだった。超光に乗った野狗は、合流するやすぐに訊いた。あらかじめ打ち合わせておいた地点、〈貂〉の国都を出て、最初に街道が十字に交差する場所である。野狗は、超光からすべり降りながら、 「いや、気の強い馬だね。はじめにいって聞かせていなけりゃ、おいら、今ごろは振り落とされた上に踏み殺されてた。しがみついているのが、やっとだったぜ」  淑夜に返したが、淑夜は手綱《たづな》だけはうけとったが、乗り替えなかった。鞍を付けかえている暇がなかったからだ。  野狗の質問に、 「西に決まってるじゃないか」  淑夜に従ってきた若者のひとりが、間髪を入れずに答えたが、 「西、ね。だが、大牙さまの居場所は?」  野狗は首をひねった。 「こちらの情勢が耳にはいっていれば、安邑の手前からこちらへ戻ってくる途中のはずでしょう」 「となると、下手をしたら、わざわざ〈琅〉の領内へ飛びこむことになる。あぶないな」 「だからといって」  淑夜が苦笑したのが、炬火の中にうっすらとうかびあがった。 「南へ逃げるわけにはいかないでしょう」 「どうしてですかい?」  野狗の口調が、皮肉っぽくなったのは気のせいだろうか。 「耿無影《こうむえい》は、いまさら、あんたを殺しはしないでしょうよ。それどころか、重く用いてくれるだろうさ。〈衛〉は今、才能さえあれば、どんな奴でも出世のできる国だからね」  淑夜は、声をたてずに笑った。 「それは、尤夫人がそういったんですか。それとも——無影が、そういえと?」 「——まいったな」  頭をかいた野狗のことばには、あきらかな肯定の響きがあった。若者たちの騎馬の輪が、ざっと狭まる。それを手で制しておいて、 「やめておきます」  あっさりと、淑夜は告げた。 「大牙さまへの、義理だてですかい?」 「それもありますが——私は、無影の覇業を助ける気はありません」 「それはまた、何故」 「無影が今、欲しいのは、自分の命令に従う人材だけです。意見する人間じゃない」 「だからこそ、必要なんじゃないですかい」 「人の意見に耳を傾けるようなら、今の無影は無影ではなかったでしょう。今も同じです。私が無影の臣下になって、諫言《かんげん》したとして、それを無影が聞き入れなかった場合どうなります。無影は、おのれの命令に逆らう人間には用がないし、私も私を必要としない人間の下にいる気はないですから、国を出るしかなくなりますよ。無影にしてみれば、二度も私に背かれる気はないでしょうから、私を殺そうとするか——それとも、私が再び無影の命を狙うか、です。同じことを二度もくりかえしても意味はありませんよ」  そういわれてしまえば、野狗にも反論の余地はない。 「私は西へ向かいますが、どうします?」 「しかたがない。帰って、尤夫人にそう報告しましょうよ」  野狗がそういって、かたわらの闇の中へ身をひるがえそうとした、その刹那《せつな》。  闇の中を、風を切る音が走った。音は野狗の耳のすぐ脇をかすめて、背後の樹の幹につきたった。 「ひ——!」  さすがの野狗が押し殺した悲鳴をあげてしまったのは、矢羽が耳をこすっていくのを感じたからだ。熱をもった耳に思わずやった手に、わずかだが液体がついた。  狙いが逸れたわけではない。わざと、かすめたのだと、野狗は直感した。この星明かりの中で正確に狙いがつけられる者、幹に刺さって震えている太矢を射ることができる者といえば、この中原にそうはいない。 「散れ!」  野狗がそれと気づくより、淑夜が叫んだ方が早かった。命令一下、二十騎余の馬はいっせいに、西に馬首を向けた。だが、 「無駄だ!」  目前に、影がたちふさがる。  淑夜は無造作に、左手に杖を握りなおした。それをまっすぐに目の前へ突き出すと、不意を衝かれた人影があっといって、転げ落ちた。  包囲されているのは承知の上で、淑夜が抵抗を試みたのは、なかば意地のようなものだった。〈魁〉の崩壊以来、おのれの才覚ひとつでここまでにまとめた国も、騎兵も、皆、崩壊しようとしているのだ。原因はひとつではないし、ひとりの人間のせいでもない。淑夜の力量不足、大牙の器量不足に、条件の不利もあった。しかし、いま少し時間があれば、〈奎〉を単なる小国の寄せ集めではなくひとつの国としてまとめあげ、〈衛〉や〈征〉と比肩していくことも可能だったろう。せめて、〈琅〉との戦を五分五分に持ちこんで引き分けていれば。〈貂〉伯が退却したいと主張した時に、小細工など弄《ろう》せずに、全軍、帰国させていれば。  もちろん、こんなことはいいわけにすぎない。だが、自己弁護だとはわかっていても、その時は、そうしなければならなかったのだというしかない。  抵抗は、自己弁護の続きだった。  だが、騎馬に慣れたとはいえ、若者たちと羅旋の配下とでは練度が違う。馬の体格も、相当な差がある。その差は、こういった夜の乱戦の中でものをいつ。  淑夜は、棒一本で三騎とほぼ互角にわたりあっていた。だが、それが手いっぱいで、他の者たちの援護どころか、ようすを見ることすらできない。若者たちがひとりずつ取り囲まれ、次々と馬から落とされていく気配がわかったが、どうにもできなかった。 「殺すなよ!」  ひときわ大きく、腹に響く声がそう指示するのが聞こえた。 「甘い!」  声とともに、淑夜は真正面の人影にむかって、棒を突き出した。長さいっぱいまで伸びた先が、ちょうど相手の鳩尾《みぞおち》にきれいに吸いこまれた。くぐもった悲鳴とともに相手は馬上につっぷした。鞍にしがみついて、ころがり落ちるのをかろうじてこらえる。声にふと、聞きおぼえがあるような気がして、淑夜は思わず身をひいた。その上におおいかぶさるように、 「夫余《ふよ》! だいじょうぶか」  いまひとつ、聞きおぼえのある声がかかったのである。 「——徐夫余《じょふよ》?」 「そうだ」  その応答とともに、淑夜の正面にひとまわり大きな人の影がたちはだかった。顔ははっきりと判別できなかったが、双眸《そうぼう》のあるべきあたりに、緑色の光がふたつ、まるで獣の目のような光り方をしているのがはっきりと見えたのだ。  彼を初めて見たのは、この目だった。深い谷底で、傷の痛みにあえぎながら死を思った時に見たのが、この両眼だった。文字通り死の底から淑夜を救いあげてくれたのが、彼だった。 「羅旋」 「怠けてなかったようだな、淑夜。来い——」  彼もまた、馬上で刃物ではなく棒を構えているのを、淑夜は見た。手加減をされたと瞬間的に思った。かっと、首筋から頬のあたりに熱い血が上るのを感じた一瞬、淑夜は自分でもまずい、と思った。  その昔、無影の仕業を聞いた瞬間に、おなじ血のたぎり方を感じた記憶がよみがえったのだ。我を忘れて、やみくもに行動を起こした結果どうなったか——。あれと同じ後悔を、二度としてはならないはずだと思うのと同時に、だが、淑夜は自分の胸のうちに以前のような熱さが残っていたことに、むしろほっとしてもいたのだった。  策士として、つとめて冷静を保つように努力してきたし、また先年、無影と再会して以来、わだかまりが不思議なくらいきれいに消えてしまった。胸が冷えきってしまったのではないかと、自分でも疑うくらいだったのだ。  だが、そうではなかった。  それを確かめるように、淑夜は馬上で棒を大きくふりかぶった。  肩のうしろから回して、頭上から一直線に振りおろした一撃を、羅旋は棒を水平にして軽く受けとめた。勢いをつけて跳ね返ってきた棒を、淑夜は手の中で方向を変え、大きく水平になぎ払った。それをふたたび、かるくはじきかえした羅旋は、その反動を利用して、淑夜の手元をねらってきた。  あやうく身体に当るのは避けたものの、手もと近くで一撃をうけてしまい、淑夜の手ははげしいしびれに見舞われた。不運だったのは、この時の淑夜の乗馬が、超光ではなかったことだ。一方が西方産の月芽では、馬の動きに大きく差が出る。羅旋の身体の振動を上手にうけとめ、脚をしっかりと踏みかえる月芽に対して、淑夜の馬は淑夜の体重さえ支えきれないようすで、何度もよろめいた。  羅旋の、頭上からの一撃を受けとめた時も、淑夜の馬は二、三歩左へよれてしまった。淑夜の体重が、左へ移動する。が、淑夜の左脚は鐙にひっかけてあるだけである。ゆっくりとした動きならば、膝をのばして身体を支えることもできるが、とっさの動きにはついていけず、膝がくだけた状態となった。 「あ——」  悲鳴というより、なにか落とし物でもした時のような、意外そうな声だった。自分の声を、淑夜は他人のもののように聞いた。視界——といっても、星明かりの下、影の輪郭ばかりがうごめく世界がぐらりと斜めになった。 「淑夜!」  声が聞こえ、腕が伸ばされてくる気配を感じ、相手の手が自分の二の腕をつかみそこねるのを感じた。昔、谷底で見た、なつかしい星空が斜めに傾くのを見た。  そして、淑夜の五感と記憶は、ここでふっつりと途切れたのだった。      (二)  相手の姿を目にしたとたん、漆離伯要《しつりはくよう》は激しい後悔に襲われた。慣れない甲冑《かっちゅう》ではなく、いつもの深衣か、それともいっそ隠士風の長衣を着てくるべきだった。その方が、こちらの余裕をみせつけてやれただろう。相手は文武どちらかに分けるとしたら、文の人間だとうわさに聞いていたから、まさかこれほど甲冑が似合うとは思っていなかったのだ。 [#挿絵(img/05_175.png)入る]  戦車の上に立った耿無影は、しっかりとした上背に簡素だが十分に美しい甲冑をまとい、胸を張っていた。城壁の下、下手をすれば城壁からの矢が届きかねない距離までやってきながら、まったく怖《お》じる気配も見せていない。いくら背後に五万の兵を率い、この新都を完全に包囲しているとはいえ、他に戦車三台を従えただけのほとんど護衛もない状態でここまで出てくるとは、大胆不敵と誉めてよい。すこし線が細いが、よく整った顔だちに口髭をたくわえ、まずは堂々たる美丈夫ぶりに、これは本物だろうかと漆離伯要は疑ってみた。  危険を回避するための替え玉かとも考えた。策を弄するという無影のことだから、有り得ないことではないが、それにしては威厳がありすぎる。〈衛〉の陣中には、うわさに聞く温涼車《おんりょうしゃ》も見えるということだし、これはやはり〈衛〉王、耿無影その人だろう。 「どうした」  冷笑をうかべながら、無影が口を開いた。 「話があると申すから、わざわざ戦を中止して、ここまで出向いてきてやったのだ。申すことがないのならば、躬《み》はもどって攻撃を続けるぞ」 〈衛〉軍が新都を包囲してまもなく、伯要は書簡を結びつけた矢を数本、〈衛〉軍の中に射こませた。それまで、四面に九ある城門のうちの南と西の二門ずつをめぐっての攻防が続いていたのだが、どうも〈衛〉軍の気勢があがっていないのを、伯要は見てとった。  城にたてこもる敵を攻める方法は、三通りある。城壁をよじ登るか、壁より高い櫓《やぐら》を近くに築き、上から攻撃をかけるか、それとも城壁の下を掘って城内に侵入するか。  だが、〈衛〉軍は城壁の下から矢や石を打ちこむばかりで、梯子《はしご》もかけず、本格的な櫓も建てようとする気配がなかった。  いくら仮の木組だとはいえ、城壁よりも高い櫓を組みたてるとなると、人手も莫迦にならないし、撤退する時にも手間をとる。やはり、いつ〈征〉の本隊が北から戻ってくるか、気になっているのだろうと判断した彼は、〈衛〉王と直接、話がしたいと申しこんだのである。  会う場所を、南の中央、朝天門《ちょうてんもん》と名づけた門の前と指定したのははったりで、何度か交渉して両者が歩みよるものだと伯要は考えていた。だから、即座にすべて諾という返事がきた時には、正直、驚きを隠せなかった。  それにしても、声の抑揚といい、悠揚《ゆうよう》迫らぬとはこういうことをいうのだろう。年齢にも、あまり差のない相手を見ているうちに、胸のうちに嫉妬心が沸き上がってくるのを、伯要は自覚した。自分より優位にある人間に会ったことは、何度もある。たとえば師父の左夫子、〈征〉王、魚支吾《ぎょしご》。だが、こんな感情を抱いたのは、無影を目の前にしたこの時が初めてだった。 「申しあげる。だがまずは、お互い戦車を降りてゆっくりとあいさつを」 「その必要はない。申せ」  無影の戦車の右側で戈《か》をかまえていた、白髪の老将が、ちらりと無影を見、伯要を見てから許可を求めるように再び、視線を主の方へ移した。伯要は、護衛に十台の戦車と、歩卒五十人を連れてきている。これでも、せいいっぱいに数を減らしたつもりなのだが、倍以上の数となった。ここで、一触即発ということになったら、無影の方が圧倒的に不利だ。だが、無影は老将の合図を無視して、じっと伯要の目を見ていた。 「話というのは、他でもない。わが〈征〉国と、貴国の間で盟約が結べぬかということです」 「盟約?」  不思議なことを耳にした、という風に、無影は首をわずかに傾けた。翳《かげ》のある容姿が、そうすることでさらに陰影を増す。 「〈衛〉と〈征〉とで、利害の一致を見ることはない。手を結ぶ余地はないと思うが」 「それは、狭量なお考えだ。共通の敵は存在しているではありませんか」 「共通? 〈征〉が今、背中から攻めかけているのは、〈奎〉だったと思ったが」 「だまし討ちにしたようないい方は、やめていただこう。戦は戦です。それに、御身と〈奎〉とが正式に盟約を結んだとはうかがっていない」 「正式だろうとなんだろうと、関わりない。わが国の敵は、現在、貴国だ」 「それは初耳。たしか〈琅〉との仲も、あまりよろしくない旨《むね》うかがっている。こちらにこんな大軍を振りむけられて、西の守備に不安はありませんか」 「あるな」  無影は、さらりと肯定した。 「だから、さっさとこの城を攻め落として、もどりたいのだ」 「ですから、早く帰国できる方法を、申しあげようというのですよ。この新都は、攻めにくく守りやすく設計してあります。巨鹿関《ころくかん》の山々からの伏流水を汲みあげているから、食料の備蓄さえ十分ならば、半年は保つ。城壁は石を積み上げたもの、内部の建物は皆、武器に転用できる材料で建ててあるのです。〈衛〉の精鋭をもってしても、落城に三月はかかるはず。その間にも、わが主の軍が帰国してくる。国内からも兵が集まる。そうなれば、不利な立場になるのは貴国の方です」  そこでいったんことばを切って、伯要は相手の顔色をうかがった。無影は、さきほどから冷ややかな微笑を浮かべたまま、じっと伯要の弁舌に聞きいっているように見える。 「五万対十万では、いかな〈衛〉軍でも、損害を出さずに撤退するのは不可能。ですが、ここでわが国とともに他国にあたるという盟約が成立すれば、貴国は味方。一兵を損なうことなく、撤退できるというもの」 「なるほど」  無影の口もとに、はっきりとした冷笑がうかんだ。 「一理はあるな」 (そうだろう。そのはずだ)  と、伯要は腹の底で思った。 「両国が手を結べば、この中原はほぼ平定されたも同然。北や西のあたりにたむろする小国など、気にかける必要もなくなります。また、人や物の交流を盛んにし、国を富ませることも可能。わが国の太学に、貴国の学生をうけいれることもできましょう」 「——商癸父《しょうきふ》」  伯要の長広舌は、無影によって中断させられた。じっと耳を傾けているように見えた無影が、突然、他の人間の名を呼んだのだ。声に応じたのは、背後の戦車のうちの一台に乗った、白面の若者である。 「はい、陛下」 「こんなことが可能かどうか、そなたの存念を述べてみよ」 「不可能かと」  釶《なた》で叩き切るような判断だった。 「理由は」 「はたして、〈征〉王陛下は、わが君と天下を二分することをお望みかどうか」  伯要は、顔色が変わるのを自覚した。 「道理だな。漆離伯要といったな」 「は——」 「これが、わが国の学舎で首席であった者の意見だ。躬も訊きたい。魚支吾どのは、この話をご承知か」 「〈衛〉王陛下がご賛同くだされば、私が命をかけてでも、この盟約を成立させてみせましょう」  無影は、あきらかに鼻でせせら笑った。 「そなたにかぎらぬ。ひとりやふたりの命を奪って、何の利益になる。そもそも、成らなかった時、どうやってそなたの命を奪いにいけばよい。口約束なら、だれでもできる」 「ならば——」  厳しい決めつけ方に、伯要は自信を失いかけていた。この漆離伯要の弁舌をもってして動かせないどころか、逆にやりこめてくる相手は初めてだった。だが、ここでいいくるめられてしまうわけにはいかない。 「私が貴国の人質となりましょう」 「人質?」  冷笑が笑い崩れる寸前で止まった。 「人質とは、その人間にそれなりの価値がある時に有効だ。魚支吾どのが、それほどそなたを大切にしているのなら、こんなところへ置き去りになどして行くまい」  かっと、頭に血がのぼるのを伯要は感じた。おまえなどに価値はないと、暗にいわれたのだ。 「ここの守備は、私がみずから志願したのです」 「ほう、何のために。〈衛〉の耿無影を、口先三寸で追いかえしたと、天下に喧伝《けんでん》するためか」 「では、御身は。御身は何故、五万もの軍を率いて、他国に侵入なさったのです。まさか、新都の構造もご存知なく、わが主君がもどってくる前に、二、三日で攻め落とせるなどと思われたわけではありますまい」 「義理を果たしに来ただけだ」 「——義理?」 「〈奎〉に何事かあれば、〈征〉の後背を衝くという約束だったのでな。〈奎〉が持ちこたえられないのは、わかっていたこと。出兵したという事実だけが、肝心だった」 「〈奎〉が——それは、なにか根拠でも」 「根拠というほどではないが。そなた、太学で教えているそうだな。では、天文は教えぬのか」 「いえ、ひととおりのことは——」 「では、北天の星の異変は承知していよう。躬には、学舎の学生が、半月ちかく前に凶星の出現を予測して報告してよこしたぞ」  それどころではなかったのだと、弁解が口をついて出そうになった。孛星《はいせい》の出現の兆しは承知していた。だがそれ以上の追及はしていなかった。半月前といえば、新都で籠城の準備に余念がなかったころだ。天などぼんやり見ている余裕などなかった。 「〈奎〉は早晩、滅ぶだろうという見立てだった。星が人の命運を決めるとは思わないが、人の動きを天が反映することは、有り得ると思う。躬の見るところ、魚支吾どのがみすみす好機を見逃すとは思えなかった。だから、魚支吾どのがすぐに戻ってくるとは思ったが、かまわなかった。躬が約束を破らなかったと知れれば、よかったのだ」  だれに、ということばはなかった。少なくとも、伯要にではないことはたしかだった。傲然《ごうぜん》とかまえながらつぶやく無影の視線は、伯要など見ていなかったからだ。それがまた、伯要の自尊心を傷つけた。しかも、ようやく視線がもどってきたかと思えば、 「話は、それだけか」  そんなせりふである。 「それだけです」  伯要は、そう答えるのがやっとだった。 「ならば、これまでだ。心配せずともよい。明日、我らは軍を退く。これ以上、戦をしても無益であろうからな。ああ、そうだ」  いったん、車を回すよう御者に合図してから、無影は片手を上げて制止した。なめらかな動きが、まるで一幅の絵を見るようだった。 「〈征〉で困った立場になったら、いつでも〈衛〉に来るがよい。学舎の講師ぐらいになら、いつでも迎えてやろう」 「それは——」  勧誘と解釈してよいのか確かめる前に、すでに無影を乗せた戦車は動きだしており、漆離伯要の存在も、彼の視野にははいっていなかった。  伯要は、くちびるをきつく噛みしめて、無影の背をにらみつけながら、同時に、護衛を連れてきたことをひそかに後悔した。 「望津が陥ちた?」  その報が大牙のもとに届いたのは、望津の戦の十日後のことである。ちょうどそのころ、淑夜が羅旋たちの一団に追われ、捕らえられていたのだが、まだ大牙の関知するところではない。 〈容〉の国都が、〈征〉によって占領されたこともそれには記してあったが、苳児の消息については触れてなかった。一瞬、顔色を変えた大牙だったが、次の瞬間には、頭からその心配をふりはらっていた。あきらめたわけではないが、それどころではない。これは、おのれの身も危うい場合だ。  まず、自分の身の安全を確保してからでなければ、なにもできない。  彼のもとには、望津の報と同時に、北方諸国の内部に戎族とおぼしい連中が侵入し、各地を荒らしまわっているという情報も届いていた。情報自体はかなり正確で詳細だったが、どれもこれも皆、遅すぎた。  唯一の救いは、〈征〉が〈容〉の国都にとどまって、それ以上西へ向かおうとしていないらしいことだったが、 「手おくれか——」  くちびるを噛んで、大牙はびっしりと文字を書きつけた布を握りしめた。その前には、国主たちが不安そうな表情を、互いに見かわしていた。 「いますこしで、安邑を衝くことができたのだが」 〈乾〉伯が、未練たっぷりにつぶやいたが、協議するまでもなかった。 「いまさら、遅いかもしれん。〈容〉はもう、あきらめなければならないだろうが、今から戻れば、〈乾〉や〈貂〉、西の方の国は保てる可能性もないではない。こうなったら、〈琅〉が簡単に帰してくれるとは思わないが、他に行く場所もあるまい」  大牙のひとことで、その場の全員が力なくうなずいたのだった。  だが、破綻《はたん》は撤退すると決まったその翌日に、すぐに現れた。〈崇〉軍が、夜のうちにそっくり消えたのである。  大牙に届いた書簡には、何故か〈崇〉には戎族の被害がほとんどないとひとこと、つけくわえられてあった。これを、大牙はすぐに罠だと看破《かんぱ》し、諸侯にもそれと告げたのだが、それでも〈崇〉の国主を見る眼は冷たかった。気位の高い国主は、それに耐えられなかったのだろう。 「こんな時に、少数の兵で移動するのは危険だということぐらい、わからないのか。各個撃破されたら、それでしまいじゃないか。まったく、莫迦ばかりがそろっている」  他人には聞こえないところで、冀小狛《きしょうはく》だけを相手にもらした不満だったのだが、動揺している軍にはこれまた、不思議に伝わってしまった。 「けっして、自国のみの利益、自軍のみの安全をはかってはならない。互いに助けあって、戻るのだ」  そう厳命し、大牙自身が〈容〉と〈奎〉の兵——今となっては、帰る国もない兵士たちを率いて殿軍《しんがり》をつとめた。 「たいしたものだ。こんな場合にも、〈奎〉軍だけは整然としている」  一時は国都、安邑にまで撤退して、籠城も覚悟していた藺如白《りんじょはく》が、手勢を率いて追撃に出てきて、そうつぶやいた。 「つけこむ隙は、そうそうないな。数で力攻めして、ここで潰すこともできるが、こちらの損害もかなり出そうだ」 「なに、〈奎〉軍は立派でも、他はうろがきております。互いの連係も、そううまくいっておらぬようすだし、他を少しずつ切り崩して、国境ちかくで決着をつければよいこと」  羊角が冷静に告げるのに、如白はうなずいた。なるべく、自軍の兵を損なわないよう、じりじりと撤退をくりかえしてきた我慢が、全軍に発条《ばね》のような作用をしている。下手に手綱を緩めれば、一気に襲いかかりかねない兵士たちを制御するのに、羊角も方子蘇も苦労していた。  羅旋が残していった騎馬兵の指揮をとっているのは、西からよびもどされた廉亜武である。茣原には、かわりに壮棄才《そうきさい》が戻っていった。壮棄才は自分から申し出て、交替したのである。無口で陰気な彼は日頃から、嫌われないまでも誰からも好かれていない。同じ無口でも、廉亜武の方が平凡そうで、人あたりがよさそうに見える分、従う気になれるようだった。 〈琅〉の騎兵のせいで、北方諸国各軍の間の連絡は、寸断されてしまった。  大牙がどれほど口をすっぱくして、われ先に逃げるなといっても、焦りにかられて野営する時間さえ削って先を急いでしまうのだ。そうなると兵の疲労も重なるし、連絡もとりにくくなる。  殿軍の大牙と、先頭をいく〈乾〉軍との間には、行程で一日分ちかくの差が出はじめた。その間へ、〈琅〉軍が割りこんでくる。騎馬の一団は、一撃すればさっと離脱していくのだが、戦っている間に、先の軍との距離がまた開くといった状態だった。  それでも、先頭の〈乾〉軍がようよう、莱陽《らいよう》の野にたどりついた。ここから先は〈乾〉の領土だ。〈征〉の手もまだ伸びていないようだし、もう、ここまでくれば——と、国主、夏夷《かい》でさえ、ほっと安堵の息をついた。  あの東側にはいってしまえば、また防御の方法もあると、長塁を望んで皆が歓喜の声をあげた時だった。  延々と続く長塁の、途切れた口から黒い影が飛び出して来たのが見えたのだ。最初、友軍かと思っていた夏夷だが、影が猛然と向かってくるのを認めて、顔色を変えた。戦車の速さではないことを、知ったからだ。 「馬だ。騎兵ということは——」  国内を荒らし回っているという、戎族か。〈琅〉がなんらかのかたちで戎族と連係したらしいという推測は、大牙のもとに届いた書簡にも記されていた。ただ、この時点ではまだ、戎族の中に〈琅〉の騎馬兵が混じっていること、それを指揮しているのが赫羅旋であることは知られていなかった。もともと統一された装備もないし、戎族の方法を真似るといった羅旋が、わざわざ所属の国や将の名を示すような物を配下に持たせるはずもない。そもそも、指揮を執《と》る羅旋が戎族なのだから、騎影を見た夏夷は、 「たかが盗賊風情、数があるといっても、どれほどのことがある。蹴散らしてしまえ」  いいはなった。  彼は、大牙たち後続の軍を待つことなく、戦車の陣形を整えて突撃を命じた。それでも、戦車同士の間隔を狭め、歩卒をなるべく戦車との間に集めて、密集隊形を作ったのは、とっさにしては上出来だったかもしれない。分散していては、騎兵に自在に動かれて、損害を大きくするだけだと気づいたのである。  それは、〈乾〉軍にとっては奇妙な戦だった。ふた月ちかく前には、東から西に攻めたものが、今度は西から東へ攻めることになったのだ。敵は少数で、〈琅〉軍ほど策を弄してこないはずの戎族——とはいえ、〈乾〉軍には、帰途を阻まれているという、精神的な負担がかかってきていた。 「戦車と戦車の間に、歩兵をみっしり並べている。蹴散らせないこともないが、あれでは損害が出るぞ」 〈乾〉軍のようすを一目見た左車が、羅旋に警告した。 「どうする」  相談するというより、試すような口調だと思ったが、羅旋は深くとりあわなかった。この若い戎族の長の、これが癖なのである。これで、年長の族長に生意気だと嫌われ、背かれたわけだが、実はこれで相手が自分よりも器量が上だと納得すれば、だれよりも素直に従うのが左車という若者だった。それが、同族の年長者には見抜けなかったらしい。 (いや、あいつらは皆、いつもそうだ)  腹の底でつぶやきながら、 「無理に攻めるな」  即座に対応策が、口をついて出た。 「正面から攻めようと思うな。いったん、脇を通ってやりすごし、背後から攻めかければいい。戦車は、そう簡単に方向転換できないからな。陣形は、それで崩せるだろう」 「わかった」  簡単に説明されただけで、左車はすぐにうなずいた。声が聞こえた時には、もうずっと先へ飛び出している。左車の馬は、毛色こそ平凡な栗毛だが、脚は羅旋がうらやむぐらいに速い。戎族のことばで「風」を意味する名がついていると聞いて、羅旋は以前の自分の愛馬を思いだしたものだ。 「追風《ついふう》」と名づけていた黒馬は、〈魁〉の滅亡後、〈琅〉に脱出しようとした際に、〈衛〉の将に射られて怪我をした。瞬間的に助からないと判断した羅旋は、なんのためらいもなく、その場でとどめを刺してのけた。長く苦しませるには忍びなかったからだが、それを見ていた淑夜の目には非情と映ったらしく、激しく非難された。その淑夜は——。  替え馬として連れてきた超光の、白い毛なみをふりかえって、羅旋はちらりと笑った。 「さて、俺たちも行くか」  両脇に控えていた徐夫余と、小参《しょうしん》がうなずいた。戦場で羅旋に助けられた少年の小参も、羅旋にしたがって〈琅〉国内を走りまわっているうちに、おとなびたひきしまった顔つきをするようになった。少年の成長に、自分のすごしてきた年月をふと、ふりかえった羅旋だが、すぐに感傷は風となった。  今は、目の前の戦に勝利すること。〈乾〉伯を負かし、次々にこの長塁めざしてもどってくる国主たちを討つ。最後にめざすのは〈奎〉王、段大牙の身柄だ。 「行け、月芽」  声をかけただけで、黒馬は弾かれたように駆け出した。  結局、長塁の戦で亡くなった国主は、〈乾〉伯、夏夷のみだった。彼は最後の最後まで抵抗したのだが、御者を射ぬかれ、戦車と馬とのつなぎ目を断たれてしまったのだ。制御を失った戦車は、小さな岩に乗り上げ転覆した。平坦な草原といっても、水面のようななめらかさはもともと、のぞむべくもない。微妙な凹凸は御者の手綱さばきで避けて振動を減らすもので、また、それができる者が名御者だといわれるのだ。とっさに、御者にかわって手綱をにぎった夏夷だったが、馬を切り離されては如何ともしがたい。いったん跳ね上がった車は、右に傾きながら着地した。車輪が砕け、乗っていた者は投げ出された。その拍子に、老人は首の骨を折ってしまったのだ。  即死だったのが、せめてもの幸いだったかもしれない。というのも、この長老は他の諸国の国主たちの醜態を、ついに見ずにすんだからだ。  他の諸侯たちは、いざ戦となっても、夏夷ほどの機転すら見せなかった。千、二千といった小人数で、前途の確認もせずやみくもに長塁を目指してきては、陣形もなにも考えず攻めかかる。羅旋たちも千人になるかならないかという小勢だが、全員が戦う用意があったのに対して、諸侯軍の兵には戦意が欠けていた。徴用された歩卒の中には、刃を向けられただけで、悲鳴をあげて降伏する者があいついだが、これは無理のない話だ。  見苦しかったのは、いざ戦という段になって、戦場から離脱する戦車の群れだった。  逃げるのならば、戦車も武器も捨てて、徒歩で夜陰にまぎれていけばよかったのだ。そこまでは、さすがの羅旋も手が回らないから、〈貂〉や〈乾〉にもぐりこむことは可能だったろう。だが、戦車に乗る資格のある甲士といえば、ふだんは卿大夫として国政にたずさわり、領主として庶人を支配する人間である。徴募されてきた領民たちを守って、戦うならば戦う、降伏するならばまっさきに降伏してみせるべきだ。それが、戦車の上で甲冑をまとい、歩卒たちより優位にたっていながら、いざ敵を目の前にして、領民らを盾にするような形で逃亡をはかるとは何事だと、羅旋は激怒した。 「かまわん。そういう奴らは、殺していい」  なるべく、死者は出したくないといっていた羅旋だが、ここに至って冷たくいいはなった。 「それなら、まだ、戦の前に道を逸れて、〈衛〉あたりに亡命をはかった奴らの方が、よっぽど気がきいていたな」 〈震《しん》〉という国は、北方諸国の中でもっとも領土が狭く、人口も少なかった。自然、発言力も低く、今度の戦にはいやいやながら、ようやく千五百の兵をだしたのみである。どうかき集めても、戦車が十五台しか調達できなかったのだが、その十五台のうちの五台を、西へ攻めていく過程で失った。国力の三分の一を失ったわけで、その上〈容〉や〈乾〉の圧力がなくなったとあっては、これ以上の義理はないとばかりに、行方をくらましたのである。  感心なことに、国主の決断に千人あまりの兵が全員、一も二もなく従って、ひとりの脱落者も出なかった。とすると、〈震〉の国主は、なかなかの良政を行っていたものと見える。  そうして、国主たちが脱落したり捕らえられたりした後、最後に羅旋の前に現れたのが、段大牙である。 「殺すなよ。〈奎〉王は、なんとしてでも生きて捕らえろ。怪我ぐらいならかまわんが、絶対に、死なせるな」  と、羅旋が左車をふくむ配下に厳命したのは、なにも昔の知人だからではない。 「奴には、それなりの利用価値がある。特に、自害させないように気をつけろよ」  羅旋なりの事情があったのだった。  その日、莱陽の野は霧雨に包まれた。雨の少ないこの地方だが、秋には気温の変化のせいで、少しは降ることがある。それにしても視界を曇らせるこんな雨は、めずらしい現象だった。 「車輪がすべる。速度を出し過ぎないよう、気をつけさせろ」  冀小狛将軍にむかって、大牙は命じた。すでに、心身は疲れきっている。〈琅〉の追撃は、一気に襲いかかってくるのではなく、一撃離脱で、一度の損害は軽微なかわり、何度でも不意をついてくるのだ。そのたびに、陣頭にたって直接指揮を執る大牙は、ほとんど眠る余裕がなかった。たとえ眠る時間と場所があったとしても、大牙は眠らなかっただろう。おのれが連れてきた兵士を、ひとりでも多く、故国へ帰してやるのが責務だと心得ている。 「もっとも、〈奎〉はすでにないし、〈容〉にも戻れないが。ただ、〈乾〉か〈貂〉あたりにまで逃げこめれば、あとは皆の好きにすればいい。まさか、農地を耕す人間がもどってくるのまで、魚支吾も禁止はするまい」  他にも、心労は重なっている。苳児の行方も気にかかるし、〈貂〉にいるはずの淑夜の生死も知れない。淑夜が健在なら、〈貂〉から、撤退する大牙たちにむけて、なんらかの救いの手が伸びているはずだ。それでなければ、野狗あたりが消息をもたらしているはずだ。それがいっさいないのは——。  疲労とあいまって、さすがの大牙も絶望に落ちこみそうになった。それをかろうじて支えていたのが、正面にたちふさがっているのが、どうやらあの赫羅旋らしいという報告だった。 「簡単には、帰してくれそうにないな」  降伏、という文字も頭にうかばないではなかった。本当に兵士たちのことを思うなら、その方がいいのかもしれなかった。軍を解散して、自分だけ降伏すればいいことだったかもしれないが、兵士たちに帰る国のないことに気づいて、断念した。それに、羅旋が許すとしても、〈琅〉公、藺如白が兵士たちを助命してくれるだろうか。  大牙は、如白とは面識がない。如白が、〈魁〉の都へ出てきたことはほとんどなく、大牙が〈琅〉へ行ったこともなかったからだ。噂は聞かないでもないし、あの羅旋がおとなしく仕えているのだから、それなりの人物なのだろう。だが、自分の目で確かめたわけでもない人間に降伏する決断は、大牙にはつかなかった。  大牙の戦車の御者は、冀小狛自身がつとめていた。〈乾〉伯の死にざまが、戦場から逃げまどったあげく西へ戻ってきた兵士によって伝えられていたのだ。他の諸侯の消息も、あらかた、大牙は把握していた。だからこそ、迷っていたのだ。その迷いが、彼の戦の腕を鈍らせたのだった。  大牙は、〈乾〉伯にならって密集した陣形を組んだ。そして、そろそろと速度を加減しながら進んだのだが——。  予想に反して、前方の羅旋の軍は長塁の東側に陣どったまま、なかなか出てこようとはしない。斥候は出してあるが、霧雨に視界を邪魔され、長塁のむこう側のようすは判然としなかった。このまま長塁を攻めるか、それともいったん退《ひ》いて、天候の回復と敵陣のくわしい偵察を待ってからにするか——。  決断が遅れたその隙に、左手からどっと鉦《かね》の音がわきたった。 「——〈琅〉軍だ!」  他にも敵をかかえていることを、忘れていたわけではない。だが、前方の羅旋の存在に気をとられ、何を仕掛けられるかという疑心暗鬼におちいった結果、注意が散漫になっていたのだ。  横手から現れたのも、騎馬軍だった。二千騎ほどの数は、〈琅〉の騎兵の残りのすべてといっていい。率いているのは廉亜武だったが、彼らは戦場に脚を踏み入れるや、羅旋の指揮下に即座にはいった。つまり、そう見えるほどなめらかに、連係がとれていたのである。  それまでは比較的冷静で、士気も高かった〈奎〉軍だが、思ってもみなかった方角からの不意討ちに、浮き足立ってしまった。歩卒が真っ先に逃げ出したのは、いうまでもない。当然、間隔のあいた戦車と戦車の間に、騎兵が駆けこむのも容易になった。  騎兵、ことに戎族の得意は、騎射である。すさまじい速度で戦車のかたわらを駆け抜けながら、矢を射込んでいくのである。その狙いがまた正確で、御者を狙い撃ちにする。御者でなければ馬を狙う。中には、馬と車をつなぐ装具を矢で射抜いて切っていく名手さえいた。  一方、〈奎〉の戦車の方も、一歩もあとにはひかなかった。湿った草がすべり、土の露出したところはぬかるむという悪条件下で、右士は戈をせいいっぱいにふりまわし、左士は矢を四方八方に放ち続けた。中でも大牙の矢は、狙いが正確な上、革を何重にも張った胴甲をあっさりと射抜いて、胴の反対側へつき抜けるほどの剛さで、何人、何十人もの騎兵が馬から落とされた。さすがの〈琅〉の騎兵たちが、大牙の戦車を避けて走るようになったほどである。 「ち——」  そのさまを羅旋が望んで、軽く舌打ちをしたのはいうまでもない。 「だらしない」  ずっと羅旋につき従っている徐夫余が、困った顔をして、 「そんなことをいって、頭領。あれを討てというならともかく、生きて捕まえるというのは、無理ですよ」 〈奎〉の農民出身の彼にしても、旧国主を生きて助けたいのはやまやまなのだが、どうにも手がつけられない。とにかく、縦横無尽《じゅうおうむじん》の戦いぶりなのである。  大勢は、あらかた定まっていた。ただ、大牙が降伏せず、〈奎〉の旗がいつまでもひるがえっているために、抵抗が続いているのだった。  戦場をひとめぐりして、長塁のあたりへもどってきた羅旋は、肩のあたりが雨に黒く濡れていたが、 「しかたがない。俺が行く」  できれば、あいつとは戦いたくなかったんだがな——ということばを、苦笑にまぎらわして、槍を手にした。月芽の横腹を軽く蹴ると、馬はわけ知り顔に軽く鼻を鳴らして駆けだした。 「おう、羅旋」  先に声をかけてきたのは、大牙の方だった。黒馬にのった羅旋を見るや、冀小狛に命じて戦車の方向を変えさせた。まっすぐに羅旋に向かってきたのは、いうまでもない。 「戈をよこせ」  命じて、右士から戈をうけとった。かわりに自分の弓を渡したが、 「射つなよ」  戈を両手にかまえて、羅旋を待ち受けた。 「あきらめろ。おまえの敗北《まけ》だ」  とはいったものの羅旋も、大牙がはいそうですかというわけがないことは知っていた。 「わかるものか。ここでおまえを殪《たお》せば、形勢は逆転する」 「そうか。それじゃ、やってみるがいい」  いうや、羅旋はいきなり槍の柄《え》で打ってかかった。それを、やはり戈の柄で軽く払って、 「刃の方を使わぬと、俺は仕留められぬぞ」  いいながら、戈を横|薙《な》ぎに払った。  もちろん、羅旋は難なくかわす。 「——仕留める気はないんだが」  ということばは、口の中でもみ消した。下手にからかったりして、大牙の頭に血がのぼりでもすると面倒になるからだ。それぐらいの自制は、羅旋でもできる。というより、この時、やはり羅旋の方にそれだけの余裕があったということだろう。  それでも、刃の方を大牙にむけて二合、三合、ふたりは激しく打ちあった。雨はほぼやんでいたが、まだ周辺はぼんやりと煙っていた。その空気の中へ、火花が飛んだ。同時に、両者の身体から熱が水蒸気となってたちのぼる。 「まだか」 「まだだ」  力と力の勝負なら、互いにひけをとらないふたりである。長引いて、体力勝負となるとしても、どちらが先につぶれるか見当がつかない。両者の激しい動きに音をあげたのは、御者をつとめていた冀小狛だった。  馬は羅旋の脚の動きひとつで、自在にあやつれるが、戦車はそういうわけにいかない。足場を選び、大牙の身体の激しい動きに応じて均衡をとり、微妙に前進させたり回したりするのはすべて、冀小狛の勘任せで、また冀小狛もよくそれに応えていた。だが、それまでの疲労に加えて、神経をすりへらすような手綱さばきを要求されたのだ。 「あ——」  手がすべったのだろう。手綱がするりと、両手の間から滑り出てしまった。あわてて手を伸ばして、押さえようとする。あやういところで手綱は手の中に残ったが、その一瞬、戦車の前進が止まり、大牙の戈が空を切った。次の瞬間、羅旋の槍の穂先が、大牙の右の肩先を滑るように切り裂いていった。  鈍い金属音とともに、肩当ての鉄の小札《こざね》がふっとび、鮮血が噴き出した。大牙の手から戈が落ち——。 「ここまでだ」  頭の上から、宣告が降ったのである。  冀小狛が、剣の柄《つか》に手をかけたが、 「よせ」  戦車の床に片膝をついた大牙が、きっぱりとした口調で止めた。 「終わったのだ。これ以上、見苦しい真似をするな」 「そのとおりだ」  羅旋が、ゆっくりと馬をおりるところだった。 「旗をたおせ。傷つく者は、ひとりでも少ない方がいい。その傷も、すぐに手当をさせる。それから、ひとことだけいっておく」 「——なにか、文句でもあるのか」  きっとくってかかったのは、冀小狛である。大牙は傷の痛みに、歯をくいしばっていたが、 「いや。苳児どののことだ」 「なに——」  聞いて、さすがに目をあげた。 「〈容〉が落ちる前に自力で脱出してきたのを、俺が保護をした。それだけだ」  くるりと背を向け、駆けよってくる配下たちに手を上げて合図する羅旋の広い背を、大牙はただ、夢から醒めたような目で見送っていた。  こうして、足掛けふた月にもわたった長塁の戦は、終結したのだった。      (三)  魚支吾が〈容〉に一万の軍を残して東へ引き上げたのは、ちょうど、長塁で〈奎〉が敗れた日である。戦の結果を知っていれば、また、〈衛〉の耿無影がすでに引き上げにかかっていると知っていれば、魚支吾はさらに西へその手を伸ばしていただろう。  うまくすれば、〈貂〉や〈乾〉、〈琅〉の国境あたりまで、〈征〉の版図にはいっていたかもしれない。もちろん、そこまで遠征するには装備や糧食が完全ではなかったのだが、多少の無理をしてもそれだけの結果が見こめる、絶好の機会だったのだ。  西と南、双方の報が魚支吾のもとに届いたのは、望津を東へ渡り、国内を三日ほどもどった時だった。 「なんという——」  漆離伯要《しつりはくよう》の書簡を読んだ魚支吾は、おのれの頭から冠をむしり取って踏みつけるほど激怒した。冠に限らず、かぶりものを他人の前で取るのは恥とされている。体面を重んじる魚支吾がここまで我を忘れるほど、その報は衝撃だったのである。だが、もうとりかえしはつかなかった。  魚支吾にしても、まさか大牙が敗れて〈琅〉に捕らえられてしまうとまでは思っていなかった。敗れるとしても、〈乾〉ぐらいまでは逃げもどってくるだろう。そうなれば、残った諸侯を糾合して抵抗してくるはずで、うっかり深入りして手間どってでもいる間に、〈衛〉に後背を衝かれては困る。  その時点での魚支吾にとって、最大の強敵は〈衛〉であり、〈衛〉の侵入を新都で押さえている間に帰国する必要があった。実際、〈容〉を手に入れただけでも、収穫としては十分すぎるほどあったのだ。  しかも、 「二度、続けての出征は——」  すぐさま西へとってかえすことを打診した魚支吾に対して、禽不理をはじめとする将たちが、全員、首を横に振ったのだった。 「兵は、疲れております。望津の戦だけで、一万余をも失いましたし、糧食、その他の不備もあります。なにより、無事に故国に戻れたと安心をしている兵たちを、家にも帰さず、続けて戦を命じるほどむごいことはございませぬ」 「なるほど、北方諸国は抵抗する余力をもう残してはおりますまい。ですが、〈衛〉はほとんど傷ついておりませぬ。ここから、再び陛下が征途に就かれたと聞けば、こんどこそ新都を攻め落としにかかってくるにちがいございませぬ」 「その新都にしても、なにやら、漆離伯要に不遜、僭越な言動があった由、うわさに聞こえております。他国を攻める前に、内をしっかりと固めておく必要があるやに存じます。ここは、どうでもこのままご帰還を願わしゅう」  最後のせりふは、禽不理である。 「そちら、どうでも孤の命令が聞けぬと申すか!」  自分でも思ってもみなかった激情にかられて、魚支吾は声をはりあげた。認めたくなかったが、彼の身体にも疲労がたまっていたにちがいない。それが自制心を失わせ、彼らしくない大声となった。 「ご命令とあれば、従います。ですが、これはご希望と——」 「同じことだ。千載一遇の好機が、二度あるとはかぎらぬのだ。〈魁〉の痕跡を、〈坤〉の大地から根絶する絶好の——」  身体の不調が魚支吾の焦りを助長し、それがまた悪循環を起こした。声をいちだんと張り上げたその時、魚支吾は胸に、今まで経験したことのないほどの激痛を感じた。  一瞬、顔色を変え声を途切れさせた君主を、群臣たちは声を呑んで見つめた。声を詰まらせるほど、怒りが激しいのだと思ったのだ。  それが異変であることに最初に気づいたのは、禽不理である。魚支吾の日ごろの不調の状態をうすうす承知していた彼は、魚支吾の息づかいの微妙な変化に、苦痛の響きを感じとったのだ。 「陛下!」 「寄るな!」  制止の声は、怒号になった。だが、その直後、 「陛下、陛下!」  魚支吾の視界は、底無しの深い闇へと転落していったのだった。  漆離伯要は、人が信用できなくなっていた。彼が新都の城門前で〈衛〉王と交渉のあげく、いい負かされて逃げ戻ったといううわさが、新都中に流れたのである。 「私が負けたのなら、何故、〈衛〉王はあっさり兵を引いたのだ」  伯要はわざと斜《しゃ》に構え冷笑してみせたが、内心はおだやかでなかった。  彼は学者として旧来の礼学に背をむけ、〈征〉の学問である刑学の学者たちとも一線を置く立場に立っている。彼自身の学問をたてるのだという意欲を魚支吾に買われ、国政にも関わるようになった結果として、当然のように憎まれ妬《ねた》まれている。それは承知の上の彼だったから、刑学の徒から悪くいわれるのはもう、慣れきっていた。だが、この新都でさえ、彼の失敗を快く思っている者がこれほど多いとは思ってもいなかったのだ。 「しょせん、私のような者は、凡人には理解されぬのかもしれぬ」  弟子たちにはそう語ったが、内心では煮えくりかえりそうだったのも事実だった。だれがいったい、この新都をここまでに仕上げたと思っているのだ。だれが、庶人の彼らに学問の道を開いてやったのだ。商売をしやすいよう、便宜《べんぎ》をはかってやったのだ。そう思うと、はらわたがねじれそうになる。  人とはそういったものだ——と、頭ではわかっている伯要なのだが、それと感情とが乖離《かいり》することを、おのれでも制御できなかった。  さらに、彼の疑心暗鬼に追いうちをかけたのが、彼自身のやましさだった。いや、どう表現していいのか、彼はとまどっていた。悪いことをしたとは、微塵《みじん》も思っていないからだ。  だがさすがに、耿無影相手に自分を売りこむようなせりふを吐いたのは、まずかった。やりこめられて、つい口がすべったのだ。売りこんだこと自体は、まずいことではないが、時期|尚早《しょうそう》であったことはたしかである。  正直にいって、伯要は〈征〉に骨を埋める気はない。魚支吾が死ぬまで——長くてせいぜい、世子《せいし》の魚佩《ぎょはい》が一人前になるまでだと思っている。魚支吾の後ろだてがあるからこそ、〈征〉で無事でいられるのだと、彼にも自覚がある。たとえ、彼が〈征〉の政権を握ったとしても、魚支吾の庇護《ひご》がなければ、長い間その地位を保つのは無理だろう。ひとりでは政治はできないし、彼を積極的に助けようという人間は、〈征〉の政の中枢にはほとんどいないからだ。  古くからの名家が多く存在し勢力をもっている国で、漆離伯要のような人間が、その中に割り入っていくのは不可能に近いことなのだ。  魚支吾が亡くなった時、最悪の場合、漆離伯要は〈征〉から逃れなければならなくなるかもしれない。  もちろんそんな羽目にならないよう、今まで努力してきた。だが、万が一の時に、彼を迎えてくれる国を確保しておいて、悪いことはあるまい——。  そして、伯要の目にかなう亡命先の候補といったら、〈衛〉ぐらいしかなかった。そう思っているところで〈衛〉王と直接話す機会にめぐまれたのだ。めったにないことだけに、伯要もつい、冷静な計算を忘れたのだった。  まずいことに、彼らの会話の一部は、護衛として連れていった連中に聞かれている。むろん、すこし距離をおかせていた関係もあって全部ではない。が、それだけに逆に、どんな誤解を招くかもわからない。  当然、会見のあと伯要は、金品と脅迫とで口止めをした。だが、人の口というものが、どれほど早くうわさを流すものか、知らない伯要でもなかった。  帰途にある魚支吾が倒れたことを、彼はまだ知らない。ただ、こうなったからには、魚支吾に一日でも早く直接会っておのれの口から一部始終を報告しよう、できればうまく一件を糊塗《こと》してしまおうと、いらいらしながら帰国の報を待っていたのである。  その頭上を、今や長い尾を引くようになった孛星が禍禍《まがまが》しい光を放っているのを、しかし彼は見ようともしなかったのだった。  傷は、出血の量に反して深くなかった。  寝ている必要もなく、大牙は監禁された天幕の中で座りこんでいるしかなく、かえって手持ち無沙汰になったぐらいだ。  大牙が入れられたのは、小さいながら清潔な天幕で、四六時中、天幕の外に監視が立っていることを除けば、案外快適だった。武器はすべて取り上げられたが、手足をいましめられもしなかったことに、大牙はおどろきすらした。これが逆の立場だったら、大牙はとにかく羅旋を逃がさないよう、あらゆることをやったにちがいない。  天幕の外ではなく内に見張りを立て、一歩も動けないよう、なにかに縛りつけただろうにと思ってから、大牙は少し鼻のあたりにしわを寄せた。亡き兄、段士羽《だんしう》ならば、こんな場合どうしただろうとふと、思ったからだ。苳児が無事でいると知らされたことを思いだしたもので、連想がその父親に飛んだのだろう。 (いや、兄者ならそもそも、こんな羽目には陥っていないか)  捕らえられて、丸々一昼夜が経っている。それだけ時間をかけてようやく、おのれの身がどうなるか、他の国主たちや将兵たちの処遇はどうなのか、考えるゆとりが大牙にもできた。それまでは虚脱状態が続き、ただぼんやりと天幕の一点を見つめるだけだったのだ。それを承知しているのか、羅旋も他の者も、だれもここには一度も姿を見せていない。兵卒が三度、簡素な食事を運んできて、また空の器を下げていったのと、一度、医者の心得があるという兵士が、肩の傷の手当をしなおしていったきりだ。  そもそも、無事だとは聞かされたが、苳児の顔すら見ていないのだ。疑いたくはないが、ほんとうに無事なのか。そういえば、淑夜はどうしただろう。羅旋が口にしないということは、彼もまた、消息を知らないということだろうか——。 「水を——」  頭が正常に働きだした証拠だろう。今まで感じなかった渇きをおぼえて、大牙は天幕の布ごしに透けて見える人影に声をかけた。  入口の布がぐいとひきあけられたかと思うと、 「水でいいのか。酒でもいいんだぞ」  のぞいたのは、たしかに羅旋の緑色の両眼だった。  あらかじめ準備してあったのだろう。羅旋は、木の椀を持ってはいってきた。中には、少し濁った水が半分ぐらいはいっている。 「すまんが、雨のせいで濁った水しかない」 「これでいい」  大牙はためらわずに受けとり、ほとんど一気に呑み干した。そのようすを、じっと見ていた羅旋は、大牙が飲みおえて息をつくと、 「疑わんのか」  訊いた。 「なにを?」 「毒がはいっているとか、そういうことをだ」 「はいっていたのか?」  真顔で訊きかえされて、羅旋は苦笑した。 「ま、いまさらそんな手間をかけるぐらいなら、昨日、とどめをさしているな。どうだ、すこしは落ち着いたか」 「すこしだけな」 「結構。これで話ができる」 「話?」  なにを話すことがあるのだろうと、大牙は思った。覚悟はできているのだ。こんな場合、他の国主は生かしておけても、大牙だけは処分しなければおさまりがつかないはずだ。  大牙自身が降伏しようがするまいが、関係はない。大牙の存在——〈奎〉王という称号と、〈魁〉王の正統の後嗣を標榜《ひょうぼう》していたということだけが、問題なのだ。大牙を生かしておけば、いつ、再び〈魁〉の復興をたくらむ者たちの象徴にかつぎだされないともかぎらない。危険は、避けた方がいいのだ。ことに、〈琅〉のように、領土は広くとも実態は後進の小国は。  だが、羅旋は首を横にふった。 「たしかに、そういう意見もある。だが、如白どのはそれではまずいといっているし、俺もそう思う」 「かばってくれなくていいぞ」  大牙は、ふんと鼻を鳴らした。 「いまさら、おまえに頭を下げようとは思わない」 「わかっているさ。俺だって、立場が逆ならそうだろうさ。だが、如白どのは違う」 「どう、ちがう」 「人を殺すのに懲りている。国主の座につくために、能なしとはいえ、兄貴どもを殺さなければならなかった」  その話は、大牙も耳にしていた。先代の〈琅〉公が没する前、余命いくばくもない彼をみくびった伯父たちが国主の座を奪おうとした。それを阻止したのが、先代から後事を託された如白だったのだ。先方から仕掛けてきたこととはいえ、血のつながった兄を殺すについては抵抗もあったにちがいない。戦の後、逃亡した甥——兄の子を捕らえた如白は、殺さず、西の辺地へ送った。流刑《るけい》に処したわけだ。助命して、機会を与えるつもりだったのだろうが、結局、彼は西方の風土にも風習にもなじめず、一年ほど後に、戎族といさかいを起こして死んだらしい。その消息を聞いた如白は、しばらく悄然《しょうぜん》としていたものだ。 「だが、俺は〈琅〉公とはなんの関係も面識もないぞ。かまわないじゃないか」 「そうもいかない。大義名分が欲しくて、うずうずしている奴が、この世にいる限りはな」 「というと?」 「〈琅〉がおまえを殺したと聞こえれば、〈征〉の魚支吾がだまっちゃいないだろう」 「魚支吾? 奴にそんなことをいう資格があるか」  大牙の太い眉が、跳ね上がった。 「俺がこっちで苦戦している間に、夏子華を殺し〈容〉を奪っていった奴はだれだ。だいたい、〈魁〉が滅んだ時にも、俺たちに追撃をかけたのは奴だ。火事場泥棒が、なにを偉そうに。たとえ、おまえたちに殺されたとしても、俺が化けて出るのは奴のところだから、安心して殺してくれ」 「だから、殺すとはいってないだろうが」  羅旋は苦笑した。 「支吾のやり方は、わかっているはずだ。おのれを正当化するためなら、どんなところにでも理屈をつけて、他人を非難する。非難すればおのれが正義だ、正義ならば、なにをやってもいいと思っている。——理屈をこじつける役目の人間を、身内に飼っているぐらいだ。おまえが死ねば、たとえ病死でも、理屈をつけて〈琅〉を非難してくるだろう」 「たしかに——」 「いくら非難されても、見当はずれの話なら、〈琅〉は痛くもかゆくもない。だが、〈容〉が占領され、北方諸国がこのとおり、壊滅《かいめつ》してしまって——いや、させてしまったのは、俺たちなんだが、とにかく、〈征〉と〈琅〉の間を阻むのは、距離の問題だけとなってしまった今、難癖《なんくせ》をつけられる口実を作るのは、少しばかりやばい。少なくとも、一、二年の間、この戦から、態勢を立て直す間はな。だから、死んでもらっては困る。淑夜も同じ意見だ」 「かといって——」  と、受けてから、大牙は二、三度、目をしばたたいた。相手のことばの最後を反芻《はんすう》するように、羅旋の緑の目を見返してから、 「なんといった?」 「なんと、とは?」 「淑夜、といったな。いや、たしかにいった。無事なのか。生きているのか。今、どこに」 「まだ、いってなかったか? そういえば、忘れていたか」 「忘れていたですむか。知らない人間でなし、苳児のことを教えたついでにでも、ひとこと付けくわえてくれれば」  真顔で、つかみかかってきたのには、羅旋も閉口して、 「悪かった」  あっさりと謝った。 「〈貂〉を出るところを、捕らえた。実は、その時に馬から落ちて、頭を打ったか、二日間、意識不明だった」  捕らえられても、すぐに意識を取り戻していればまた、状況は変わっていたかもしれない。淑夜のことだ、策を練って羅旋の妨害ができたかもしれないし、そうなっていれば、諸国の軍がすべて、長塁で撃破されてしまうこともなかったかもしれない。だが、二日の間、動きがまったくとれなかった間に、羅旋は淑夜を後方に軟禁しておいて、先へ進んでしまったのだ。茱萸の看病で、淑夜が意識を取り戻した時には、すでに手遅れだった。  戦こそ始まっていなかったが、大牙たちに連絡を取ることもできず、みすみす友軍が敗れていくのを、手をこまねいて見ていなければならなかったのだ。  それが、負担になったのだろう。  淑夜は今、この仮の陣の端の天幕に、大牙と同様の軟禁状態に置かれながら、病臥しているという。 「正確には、病じゃない。物を食わなくなっただけだ」  それも、おのれの意志で食べないのだそうで、 「食えと、再三勧めてるんだがな。俺にしても、あいつに死なれるのは困る。優秀な謀士は、ひとりでも多く欲しい。奴だけじゃない。〈琅〉は人間がほしい。国を富ませ強くするには、才能のある人間を多く抱えるしかないからな」 「国か」 「〈琅〉というのは、おもしろい国でな。俺みたいな人間には、働き甲斐《がい》がある」  大牙は、意外そうな表情で、羅旋の顔をつくづくと見た。束縛を嫌った以前の彼からは、想像しにくいことばだったからだ。長い間の戦場暮らしで、羅旋の顔は陽に灼《や》け垢《あか》じみて、無精髭に被われている。その中で、両眼だけが陽気で屈託のない光をたたえていた。  彼のことばに虚言はないと、大牙は感じた。 「とにかく、淑夜も俺は死なせたくない。それで、無理にでも食わせるぞといったら、交換条件を出してきた。おまえの助命だ」 「あいつ——」 「俺ももっともだと思った。いや、その方が将来の〈琅〉のためになると思ったからだ。まず、おまえが助かるなら、〈奎〉の兵を〈琅〉の兵として働かせやすくなる」  たとえば、冀小狛が主君を殺した国に仕えるとは考えにくい。だが、それで大牙が助かるなら、彼は〈琅〉の一兵卒になってもいいというだろう。他の者に冀小狛ほどの忠誠心はなくとも、昨日までの敵に仕えるのに、抵抗感を減らすことができる。その分、〈琅〉の兵力を増やすことができると羅旋はいう。 「それに、王としてのおまえは知らんが、将としての段大牙は、ここで朽ちるのは惜しい人物だと思っている」 「それは、素直に誉めことばととっておこう。だが、だからといって——」 「まあ、待て。なにも今すぐ、頭を下げろ、〈琅〉の臣になれといってるんじゃない」 「時間をおいたとしても、同じことだぞ」 「それは、時間が経ってみなけりゃわかるまい。試してみる価値はある」 「どう試す」 「西に送る」 「西——?」  羅旋はゆっくりとうなずいた。 「戎族の土地だ。さいわい、蒼嶺部の長が引き受けてくれるといっている。なにもない広い土地で、ひとりで、東の国々を冷静に見て考えてみろ。〈琅〉が、おまえの身を託すに値しないとなったら、そのままどこへでもいけばいい。他の国の方がいいと思うなら、それも好きにしていい。期限は一応——そうだな、一年でどうだ」 「——一年しかないのか」 「甘く見るなよ。西の環境は厳しいぞ。名家の公子育ちのおまえが、一年もひとりで生きぬけるだろうかという意見もあるぐらいだ。事実、生き延びられなかった奴もいる」  いわれて、大牙もうむと口をつぐんでしまった。名家の公子としては実のところ、規格はずれの大牙なのだが、一兵卒からすればやはり甘いところもある。なにより、生まれてこのかた、必ず周囲にはだれかがいて、彼を助け続けてくれた。だれかに支えられていることが当然だと思い、それに疑問を感じたこともあまりない。真実、ひとりになったことがないだけに、羅旋にそう脅されると自信がなくなったのである。 「生き延びられなかったら、〈琅〉は手を下さずにやっかいばらいができるという寸法だな」 「そのとおりだ。だが、機会としては公平だろう」 「俺の——俺という人間ひとりの、実力次第というわけだな」 「そのとおりだ。〈琅〉という国は、実力だけがものをいう国だからな」 「——わかった」  ということばが大牙の口からこぼれ出るまで、長い長い沈黙があった。  だが、ついに大牙はうなずいたのだった。 「ひとりになって——世の中を考え直してみる」 「そうしろ」 「淑夜に伝えてくれ——」  立ち上がった羅旋に、追いすがるように大牙は告げた。 「莫迦な真似は、すぐにやめろ。おまえが死んでみせたって、だれもありがたがらないぞとな」 「いってみよう。——もう、はいって来ていいぞ」  最後のせりふは、天幕の入口の垂れ幕を持ち上げながら、外にむかって告げたものだ。大牙がだれだと思うより先に、 「叔父さま」  戦場には不似合いな、無邪気な女童の笑顔が、ひょいとのぞいたのだった。 「苳児——」  無事だと知らされてはいても、見て確かめることはできなかった。心に掛かってはいても、会わせろと要求できる立場ではなく、またこんな姿を見られたくないという思いもあった。だが、つややかな前髪を揺らしながら腕の中に飛びこんできた姪を見たとたん、不安もわだかまりも、氷解していった。 「無事だったか」  傷の痛みも忘れて、ちいさな姪を両腕で抱きしめた。 「茱萸と、羅旋のおかげです」 「これで、兄者に申し訳がたった」 「——今日、ここに着いたばかりだ。心配させたようだが、悪く思うな」 「わかっている」  戦の場から、なるべく遠く離しておいてくれたのだ。それが理解できない大牙ではなかったし、こうして無事を確認できた以上、いうべきことはない。 「またすぐ、一年ほどは会えなくなるだろうが、我慢しろ。苳児どのも、他の将兵も、〈琅〉が責任をもってあずかっていてやる」  大牙は、黙礼だけで応えた。  羅旋は、緑色の眼をひらめかせて、するりと出ていった。  口に出してはけっしていえないことだが、やることなすこと、相手の方が一枚も二枚も上手だったなと、大牙は素直に感じていた。 「承知したぞ」  天幕にはいってくるなり、告げられたひとことで、淑夜はすべてを了解した。 「そうですか」 「約束だぞ。食えよ」 「——わかりました」  枕もとに座っていた茱萸が、羅旋の目くばせでさっと外に出ていった。代わって、羅旋がその位置に足を組んで座った。  薄い敷物の上に、やはり薄い布を掛けて淑夜は横になっていた。彼も苳児と同じく今日、ここに着いたばかりだ。立つことができず、馬の横腹に吊した台に横たわったまま運ばれてきたわけだが、意外に元気なのは水だけは口にしていたからだ。とはいえ、目のあたりは落ちこんでおり、顔色も悪い。出迎えた徐夫余が、思わず目を逸らしたほどである。 「まあ、そうがっかりするな。なにもかも終わったわけじゃない」 「——そうですね。まだ、生きていられるわけですから」  とはいうものの、淑夜は目が醒めた時から激しい虚脱感に襲われつづけている。やってきたことがすべて無になっただけではない。〈容〉や他の諸国まで巻き添えにしてしまったのではないかという、罪悪感にとりつかれているのだ。国主たちにはともかく、死んでいった兵士たちには、責任があるとも思っている。  もちろん、おのれひとりのせいではないとも承知している。言い訳ではなく、淑夜にはひとりで北方諸国を動かす力などなかったのだから、仕方がない。もしも、大牙が軍のすべてを掌握した上でこの事態に至ったのなら、謀士としての淑夜にも責任がある。だが——。 「忘れろ、というのは無理かもしれんが」  羅旋にも、淑夜の心情は手にとるように理解できた。だから、下手な激励などする気はなかったが、このままずっと虚脱されていても困るのだ。 「やり直す気にはなれんか」 「一から、ですか」  大儀そうに、淑夜はため息をついた。実際、目がくらみそうな思いにかられたのだ。〈魁〉が滅んでから今までの歳月を数えただけで、うんざりした。もう、なにもかも放り出したい気分だった。だから、茱萸がもどってきて、椀をさしだした時も反射的に顔をそむけてしまった。 「飲め」  羅旋が椀を受けとって、淑夜の顔の上で少し揺すって見せた。 「それとも、上からぶちまけてやろうか」 「——飲みます」  茱萸のさしだした手につかまり、少女の手に背を支えられて、ようやく淑夜は上体を起こした。その口に、椀がつきつけられる。  水はやはり、かすかに濁っていたが、淑夜は目をつむって飲んだ。飲みくだしてから、はっと目を見開いた。 「これは」 「気がついたか」 「——あの時の。巨鹿関の手前の谷で」  はじめて、羅旋と出会った時だった。谷底から救いあげられ、最初に飲めといってさしだされた水と、同じ味だった。皮膚の内側から洗い流されていくような、爽やかだが刺激の強い味である。薬草を入れてあったのだと、羅旋はいっていたが。 「飲んでしまえ。それから、粥《かゆ》を用意させているから、それも流しこんでしまえ。腹に何もはいっていないから、気力も知恵も、なにもかもなくすんだ」 「思いだしましたよ」  淑夜の口もとに、何日かぶりにうすい微笑が浮かぶのを、茱萸は見た。 「そっくりだ。あの時と」  あの時、胸の中にあったのは、無影に対する怒りと恨みと裏切られた傷心、絶望感と、それでも生きていたいという意志だった。無影に対する激情は今なく、別の意思がとってかわっているが——生きていなければならないのは、当時と同じはずだ。いや、それ以上に淑夜には、成さねばならないことが増えていた。だから——。 「あの時、ひろってもらった命を、またひろってもらったわけだ」 「そうだ。ひろってやった俺に断りもなく粗末にすると、罰があたるぞ」 「私は、生きていなくてはいけないんですね」 「そのとおりだ。他のことは、ゆっくりと身体を休めて、よく考えて、納得してからでいい。おまえは、何をしたかったのか。これから、何ができるのか。じっくりと考えてみろ。逃げることは、許さん」 「わかりました」  かすかだが、顔に血の気がもどってきた。薬草水の効果だけではないことは、だれの目にもあきらかだった。 「努力してみましょう」 「いい心がけだ。飲んだら、休め。体力を早くつけないと、安邑まで保たんからな。——そういえば、茱萸、おまえはどうする」 「あたし?」 「尤家へ帰るなら、送らせるが」 「姫さまは? 苳児さまは、どうする?」 「苳児どのも、しばらく安邑で暮らすことになる」 「なら、あたしも行く」  茱萸は迷うということを知らなかった。 「東で、あたしのすることはない。息がしにくい。でも、ここなら、あたしも息ができる」 「なら、一緒に来い。しばらくは、淑夜の看病をしていてもらおう。その先は、そうだな、揺珠《ようしゅ》どのにでも考えてもらおう」 「——揺珠?」 「〈琅〉公の義女だ。玉公主ともいう」  その名を聞いたとたん、淑夜が一瞬、なつかしそうなまぶしそうな表情をみせたことに羅旋は気づいたが、敢えてなにも口にしなかった。 「やっと、これでおもしろくなってきた」  羅旋は、陽光のような笑い方をした。 「やっと、俺の思うようなことができる。すべては、これからだ」 〈奎〉が〈坤〉の大地から姿を完全に消したのは、〈魁〉が滅んで五年目の秋だった。夏氏の命脈を継ぐ北方諸国の連合が同時に崩壊し、旧い秩序をひきつぐ国は、これですべて失われたのである。  その秋、天にかかった凶星は、冬にはいって姿を消した。が、それが一時のことであるのを知っているのは、ごくわずかの人間だった。 [#改ページ]    あとがき  御無沙汰いたしております。一年以上の間隔を開けての、五巻目です。中にはお忘れの方もいらっしゃるのではないか(ちなみに、作者は時々、登場人物の名前を忘れます)と、おびえながらも、ともあれ懸命に走ってみました。  ようやく、第二部終了。山のひとつは越えました。  こののち、第三部三巻分はなるべく間隔を開けないよう、とりあえず六巻は来年の夏には刊行できるよう予定していますので、ご容赦ください。  正直なところ、何度もいうようですが、こんなに長くなるとは思ってもみませんでした。しかも、これでも相当、必要だと思う経緯をすっとばして先を急いでいるのです。実際の春秋戦国時代が五百年もかかったのは、伊達《だて》じゃないことを実感しました。ほんとうに、社会や技術が動いていくのには、それだけの年月が必要なのです。もちろん、人間一代で社会が革命的に変化してしまうなどということは、めったにないこと。思えば二十世紀末に生きている私たちは、人類史上、希有な経験をしているのかもしれません。  とにかく、国をひとつリストラするのには、大変な労力が必要なことだけはわかりました(笑)。第三部では、三巻で二国も整理しなけりゃならないなんて、今から思っただけで目がくらみそうです。  そういえば、今回、二国間の戦争に主眼を絞ったために、レギュラーの多く、特に女性陣を描ききれませんでした。かろうじて名前だけ出して、次につなげましたので、ご容赦を。今度は、恋愛沙汰のひとつやふたつ——というのが、目下の野望です(笑)。  冗談はさておき、だいぶキャラクターの所属も整理がついたし、そろそろ殺しにかかろうかなと思っているのですが、いかがなものでしょうか。  殺すといえば、段大牙の処遇についてはいろいろと、前もって討議をしたあげく、こういう結果になりました。さて、これがどう尾をひくか、作者も楽しみなような不安なような。ひとついえるのは、これで三人の漫才がめでたく復活するだろうということ。淑夜クンも成長して、口では負けていなくなりましたから、舌戦《ぜっせん》が展開されるようになってくれると、作者も原稿の枚数がかせげてうれしいのですが(笑)。でも、こいつら、手綱を放すとどっちへ話をもっていってしまうかわからないので、それも苦労のひとつです。  最後に、あいもかわらずスローペースな原稿を待っていてくださいました、関係各方面に感謝いたします。といっても、締め切りの二十日も前に一応の完成は見ていたわけだし、実質、二ケ月月で仕上げたんですから、最近の私としてはハイペースな方です。でも、ラスト近くでうっかり、三十枚近くを消し去るという大ボケもやってしまいましたから、大きな顔はできませんね(笑)。とっくに部分入稿していたところだったから、よかったようなものの、久々に血の気がひく思いをいたしました。こうして無事に出るのは、こまめに原稿を取りに来てくださった担当さんのおかげです。今後とも、お見捨てなきよう。  あと、物語は三分の一を残すだけ。次からはラスト・スパートに入ります。いましばらく、おつきあいのほどをお願いいたします。  多謝、再見。 一九九六年七月 [#地付き]井上祐美子拝 [#改ページ] 底本 中央公論社 C★NOVELS Fantasia  五王戦国志《ごおうせんごくし》 5 ——凶星篇《きょうせいへん》  著者 井上《いのうえ》祐美子《ゆみこ》  1996年9月25日  初版発行  発行者——嶋中鵬二  発行所——中央公論社 [#地付き]2008年8月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・夏子由《かしゆ》→ 前巻までは・夏子由《かしゆう》 修正  不義とそしる気か→ 不義とそしる気か」 置き換え文字 唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94 莱《※》 ※[#「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6]「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6 |※《あかげ》 ※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]「馬+華」、第3水準1-94-18